奥州街道(3)喜連川本町~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿~金燈籠 その4
2025年5月23日
田谷川
奥州街道は佐久山宿を抜け、箒川を渡ると、これまでのいくつもの丘陵を越えた道から一変して、平坦な台地上の道に変わります。この台地は、箒川とこの先を流れる那珂川の造る広大な扇状地から形成されていて、那須野ヶ原とも呼ばれています。
このような扇状地では表層近くの礫層が水を通しやすいため、那須の山々で降った雨水が伏流水として地下を流れ、ところどころで湧水として湧き出ています。大田原市内でもいくつかの湧水源が見られます。
奥州街道を歩いていくと、田谷川を渡ります。とても澄んだ水が流れるこの川にも近くに湧水源があるようです。

しばらく歩き、親園交差点を過ぎると左右に田んぼが広がる開けた場所に出ます。左手前方には那須連山の山並みが見えます。

直線の道が続きます。

こちらは麦畑が広がっています。麦秋の季節です。

やがて、親園小学校入口の先で、奥州街道は左へカーブします。

親園の町並みを進みます。

すぐのところで、個人のお宅に立つ立派な松が見えます。説明板によると、「与一の里名木選」として選ばれている国井宅の赤マツで、目通り周囲1.7m、樹高7m、樹齢約200年と記されています。

落ち着いた雰囲気の親園の町並みを歩いていくと、

左手に湯殿神社の入口があります。

入口右手の覆屋には、

蒲葦(ほろ)碑が納められています。説明文によると、文化9年(1812年)に行脚僧が那須野を一隊の兵士が行進している蜃気楼を見て、その様子を文に記し、石碑に刻んだと言われています。この辺りでは蜃気楼を蒲葦と呼び、中国の書「中庸」の一文には「政治は蒲や葦のようなもの」と記されていることと、この地を治めていた代官山口鉄五郎の善政を結び付けたものと考えられています。

蒲葦碑のはす向かいに国井宅の門が見えます。

門の脇に、町初(まちはじめ)碑が立っています。説明板によると、奥州街道が整備され、ここ八木沢村が間の宿として開かれたのを記念して、寛永4年(1627年)に建てられました。

百村川に架かる筋違橋を渡ります。

百村川の下流の眺めです。

遥か彼方まで続く直線道です。

筋違橋から直線道を30分ほど黙々と歩いていくと、浅香3丁目交差点に到着します。大田原の町にだいぶ近づき、家並みも多くなってきました。ここは直進します。

大田原宿
浅香3丁目交差点から10分強歩くと、大田原宿の江戸口付近に入ります。

傍らに、「旧奥州道中 大田原宿 新田木戸跡」の石碑が立っています。

奥州街道はすぐの新明町交差点を右折します。左方面は日光北街道と呼ばれ、矢板、船生を通り日光街道今市宿に繋がる街道でした。日光北街道は奥州の諸大名の日光参詣道としても利用されました。また、松尾芭蕉の「おくの細道」紀行で、芭蕉らは日光から日光北街道を通り、この追分を直進して大田原宿に入ります。宿内を通り、その先の蛇尾(さび)川を渡ったところで奥州街道から分かれて黒羽へ向かったそうです。

交差点を右折すると、脇にある橋の架け替え工事中でしたが、その先で街道は右へカーブします。

カーブの左手には薬師堂があります。大田原城の西の守りとされ、寛永年間(1624ー1644年)に大田原氏によって堂宇が再建されました。その後、大火で焼失しましたが、寛政5年(1793年)に大田原庸清(つねきよ)が再建したものが現在の堂宇です。
また、薬師堂にはかつて仁王門が建っていて、金剛力士像が2体安置されていました。しかし、万延2年(1861年)の火事で仁王門は焼失してしまい、それ以来、金剛力士像は堂内に安置されています。

破風下の彫刻が今でも鮮やかで、見事です。

境内の右手には、七重の石塔が建っています。貞享元年(1684年)に建立されたもので、高さは4.85mもあります。

街道に戻り、少し先の左手には「旧奥州道中 大田原宿 下町」碑が建っています。

右手、パインズホテル入口の先には、「本陣・問屋・高札場跡」の説明板が立っています。大田原宿本陣は敷地980坪、建坪381坪と奥州街道最大を誇っていました。

さらに、大田原宿を進みます。

大田原信用金庫の前に那須与一像が立っています。「幸矢の与一像」と刻まれています。

その先で、金燈籠交差点に到着しました。

交差点の手前、左手には金燈籠が立っています。文政2年(1819年)に大田原宿の有志によって、防火、町内安全、旅人の安全を祈願して建てられました。しかし、太平洋戦争中に金属として供与されてしまいました。現在のものは3代目で、昭和54年(1979年)に復元されたものです。
しかしながら、台座は往時のもので、西側から見ると「江戸」、東側には「白川」、正面には「上町」と記されています。

一角はポケットパークになっていて、休憩スペースも用意されています。

また、元禄2年(1689年)に芭蕉がこの場所を通ったことに関係して、おくの細道のあの有名な冒頭文「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。・・・」と、那須野の一文が記されています。

奥州街道は金燈籠交差点を直進しますが、本日の街道歩きはここまでとして、交差点を左折して、JR西那須野駅行きのバス停「トコトコ大田原前」へ向かいます。
そして、バス停に着いたのは14:40です。今日の行程は5時間25分でした。15:00発車まで少し時間があったので、トコトコ大田原内の観光物産店を覗いてみました。

バスは数分遅れて来ましたが、15分ほどで西那須野駅東口に到着しました。数分待って上り電車が入ってきたので、それに乗って帰路につきました。
次回は秋に入って涼しくなってからにします。
