今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(31)石部~草津宿~草津追分~草津 その2

 

2024年10月14日

 

 

 東海道は伊勢落地区を抜けて林地区に入ります。右手の長徳寺には薬師如来堂が建ち、その前には、ここにも、栗太八景の漢詩の石碑があります。

 上野夜雨(かみののやう)

 茅屋は寂寥なり上野の郷 村前と村後には雨声長し

 隠晴定難し雲来りて去る 是疑い今宵月光を尋ねん

 

 長徳寺を後にすると、すぐのT字路の角には常夜燈が立っています。

 

 常夜燈の脇には「新善光寺道」と、側面には「是より一丁餘」と記された道標が立っています。新善光寺はT字路を右折して、線路を渡った先にあります。傍らにある現代の標識には「新善光寺 300m→」と示されています。

 新善光寺は、鎌倉時代中期、平重盛の末裔である小松宗定が平家供養のために信州善光寺から阿弥陀如来の分身を招来したのが始まりと言われています。

 

 新善光寺道道標を過ぎると六地蔵地区へ入ります。東海道は道なりに左へ曲がります。

 これまで、滋賀県に入ると柱や塀に赤いベンガラ(酸化鉄の顔料)を塗ったお宅を多く見かけるようになります。確か、中山道を歩いた時も、滋賀県に入った柏原宿あたりからベンガラのお宅を多く見かけるようになった記憶があります。ベンガラは腐食防止の役割を果たしてくれます。

 

 角を左へ曲がり、さらに、六地蔵地区を歩きます。

 

 右手には「国寳 地蔵尊」と記された寺標が立っています。

 

 門をくぐると、砂利がきれいにならされ、歩くのが憚られそうな境内の先には地蔵堂が建っています。祀られているのは木造地蔵菩薩立像で平安時代(10世紀)頃の作といわれています。この地の地名になった六地蔵のうちの1体と伝えられています。

 このお地蔵さまは明治33年(1900年)に国宝の指定を受けましたが、昭和25年(1950年)に文化財保護法が制定され、重要文化財へ移行されました。

 

 東海道に戻り先へ進むと、正面には大屋根のお宅が見えてきます。

 

 街道脇に祀られているのは、これは、甲州街道の山梨あたりでよく見かけた丸石道祖神ではないでしょうか。

 

 福正寺の前を通ります。山門の脇には太鼓楼が見えます。福正寺は真宗大谷派のお寺で、蓮如上人ゆかりの場所だそうです。

 

 先ほど遠目に見えた大屋根は旧和中散本舗の建屋です。

 ここ六地蔵はかつて、石部宿と草津宿の間にある間の宿として栄え、道中薬を商っている店がありました。慶長16年(1611年)に徳川家康がこの地を通った際に、腹痛を起こしましたが、本家ぜさい(是斎)の薬を服用したところ快癒しました。家康は和中散と命名させ、その名は東海道中で一躍有名になりました。

 本家ぜさいを営む大角家は、後に小休み本陣、いわゆる茶屋本陣を務めるようになりました。現在、大角家の主屋、門、隠居所は国の重要文化財に、旧和中散本舗全体が史跡に、庭園が名勝に指定されています。

 

 店舗は大店で、街道に面した間口はかなり広く取られています。

 

 腕木鼻に彫刻が施されています。

 

 本家ぜさいの看板。

 

 旧和中散本舗の先で、左から県道116号が寄ってきます。

 

 しかし、県道とは合流せず、東海道は右へ反れて行きます。

 

 分かれる角には一里塚の石碑が立っています。六地蔵の一里塚で、日本橋から数えて117里目の一里塚です。

 

 一里塚碑の隣には「東海道名所図絵 梅の木」の石絵が掛けられています。ここ六地蔵村には立場が置かれ、梅の木立場と呼ばれていました。石絵には周りが写り込んでいて見づらくなっていますが、先ほどの和中散本舗ぜさいの店が描かれています。

 

 さらに、六地蔵地区を歩いて行きます。

 

 少しだけ、街道から反れると田んぼの向こうに三上山を望むことができます。先ほどの伊勢落からの眺めに比べると、こちらの方がきれいな円錐形に見えます。

 

 東海道に戻ります。

 

 高念寺の前を通ります。

 

 まだまだ、六地蔵地区が続きます。

 

 さらに、小野地区へ入ります。

 

 街道の先には名残の松が見えてきます。肩かえの松です。

 

 旅人足がこの松の下で休憩して、荷物を担いでいた肩を変えていたそうです。後ろには2代目の松が控えています。

 

 手原二丁目交差点を越えると手原地区に入ります。その先で名神高速道路への進入路の下をくぐります。

 

 

東海道(31)石部~草津宿草津追分~草津 その3へ続きます。

 

東海道(31)石部~草津宿草津追分~草津 その1へ戻ります。