2024年3月10日
広木・駒衣
鎌倉街道は白石(大仏)地区の町並みを抜け、広々とした畑作地を通ります。休耕地やソーラーパネルも点在しています。風は相変わらず冷たく、マフラーは朝から巻いたままです。
このあたりのソーラー発電所のパネルの下には、土地の有効利用だと思いますが、樹木が植えられています。パネルの位置は高めに設定されていてパネルの間に間隔が開けられていますが、下の木に陽の光が十分に当たっていない気がします。常緑樹系の背の低い木が植えられていますが、何という木なのでしょうか。
こちらの木は、おそらくブルーベリーでしょうか。美里町はブルーベリーの産地と聞いています。
道端には馬頭観音が祀られています。
庚申塚から10分ほど歩き、「止まれ」のある十字路を左へ入ります。美里町の茶色の鎌倉街道の標識も立っています。
十字路の北側では、赤城山から日光の男体山を望むことができます。
十字路から西へ進むと広木地区に入ります。広木にはかつての宿駅がありました。
志戸川に架かる橋を渡り、寄り道のため、左折して川沿いを進みます。
さらし井の遺跡へ向かいます。川の向こう側には広木屋台庫が見えます。毎年7月の八幡神社の例祭に合わせて屋台の曳き回しが行われ、五穀豊穣を願うお囃子が有名です。
志戸川沿いに南へ歩いて行きます。
左折して5分ほど歩くと、さらし井の案内板が出てきます。
コンクリートの小さな橋を渡ると古代から伝わるさらし井があります。説明板によると、織布を洗いさらす井戸で、ここでさらされた布の多くは調傭布として朝廷に献上されていました。この井戸の水は千数百年の昔から湧き出ています。
万葉集にも、
三栗の 中にめぐれる 曝井の 絶えず通わん そこに妻もが
という歌が残されています。
歌碑も立っています。
右手にあるのは常福寺です。手前には長屋門が建っています。常福寺の創建は古く、天平時代(729から749年)と言われています。
もう少し、寄り道をします。常福寺先の県道との交差点を横断して、一本目の路地を右へ入ります。
すぐのところに、「万葉遺跡 伝大友部真足女(おおともべのまたりめ)遺跡」の説明板が立っています。この辺りには防人檜前舎人石前(さきもりひのくまのとねりいわさき)の館があったと言われ、檜前舎人石前が防人として出兵する際に、妻の大友部真足女がこの悲しい別れを詠んだ歌が、防人の歌として万葉集に掲載されています。
枕太刀(まくらたし) 腰に取り佩(は)き まかなしき 背ろがまき来む 月(つく)のしらなく
傍らに歌碑も立っています。
さらし井と共に万葉の里言われています。
鎌倉街道に戻り、その先を進みます。
広木の町並みの端までくると右手に常夜燈が2基立っていて、その脇にみか神社の社標があります。「みか」にあたる漢字はパソコンでは出せませんでした。神社へ向かうため、常夜燈の間の道を北へ進みます。
国道254号の向こう側に鳥居が見えてきます。
国道を渡った入口には芭蕉句碑があります。
麦刈りて 桑の木ばかり 残りけり
鳥居をくぐります。
説明板によると、みか神社の創建は不明ですが、延喜式神明帳にも載る古い神社です。「みか」とは酒を造るための大きな甕(かめ)を指します。今でも御神宝として土師器の「みか」が4個保存されています。
さらに、北へ進み、神社の森を抜けると、左手には雪に覆われた浅間山の見事な姿を見ることができます。
その先には摩訶池が広がります。農業用のため池になっていますが、池に向かって打ち込むゴルフの練習場になっています。
鎌倉街道に戻り、さらに先へ進みます。
高台から下っていくと国道254号に合流します。
国道に入ると、右手には緑の麦畑が広がります。
国道の左手には、いつもの埼玉県の鎌倉街道上道の案内板が立っています。そろそろ埼玉県も終わりで、上州に入ります。
右手の畑の中にいくつかの盛り土が見えてきます。
右折して農道に入ってみましょう。