2024年3月10日
広木
国道から見えた土盛りは古墳群です。広木・大町古墳群と呼ばれ、説明板が立っています。前方後円墳、方墳、円墳が少なくとも100基以上が集まっています。先ほど訪れた摩訶池の近くにある両子塚古墳もこのエリアに含まれます。出土品から6世紀中ごろから7世紀のものと考えられています。
国道に戻り、少し先へ進むと左手へ入るT字路に出ます。鎌倉街道はここを左へ入ります。この先は陣街道と呼ばれています。
先ほど通過した広木の庚申塚の説明板には、もう一つの鎌倉街道が示されていました。広木の集落へ向かうために左折した十字路を直進する道です。その先、摩訶池の北側を通り、このT字路の右手から合流していました。現在はT字路の右手は製薬会社の工場が建っているので街道の痕跡はありません。
T字路の手前角にはかつて、樹齢400年の榎の木が立っていました。広木の一里塚跡と考えられています。一角は平成一里塚公園となっていますが、荒れに荒れています。
向かいの角にも一里塚の石碑が建っています。
T字路を左折して陣街道に入ります。
西へ進み、橋を渡った一つ目のT字路を右折します。
細い路地を進むと、小山川の土手に出ます。小山川は以前中山道を歩いていた時に岡部町の滝岡橋で渡った記憶があります。
鎌倉街道はこの近辺で小山川を渡りましたが、現在は土手道の上流側にある十二天橋まで迂回することになります。土手道には桜並木が植えられ、こだま千本桜と呼ばれる名所になっています。もう少ししたら見事が桜を見ることができますね。
小山川には水が流れていません。地下に潜ってしまっているのでしょう。堰が横たわっていて、ここで渡れそうです。
小山川左岸から児玉の町へ通じる道に入ります。
本庄児玉病院の脇を通り、車通りの多い通りを横断して直進すると、右手から合流する県道175号に入ります。
小山川の左岸の土手から10分強歩き、角に木村医院がある交差点の手前にある龍體稲荷神社へ入ります。直進方向は鎌倉街道の支道である上杉道と呼ばれ、室町時代の関東管領山内上杉氏の居城である平井城(藤岡氏)へ通じる道です。
龍體稲荷神社には本町山車庫があります。説明板によると、本町の山車は明治33年(1900年)に造られ、秩父型屋台と江戸型人形山車を兼ね合わせた児玉型と呼ばれる独特の様式だそうです。本庄市の有形民俗文化財になっています。
神社の右手の路地を進むと、
芭蕉句碑があります。
父母の しきりに恋し 雉子の声
その先には法養寺の鐘楼門が建っています。
龍體稲荷神社まで戻り、山車庫を回り込んで児玉駅方面へ歩きます。山車庫の壁際には児玉地区の鎌倉街道の案内板が立っています。
街道に戻りしばらく歩くと、玉蓮寺境内へ脇から入ることができます。
玉蓮寺には児玉党主児玉時国の館がありました。時国は日蓮上人に帰依し、文永8年(1271年)に上人が佐渡に配流になった際、この館に宿泊してもらい、文永11年(1274年)に赦免になって鎌倉へ戻る途中にも宿泊してもらいました。その後、弘安9年(1268年)に日蓮上人が没した後、庵を作り日蓮像を安置したのが玉蓮寺の始まりと言われています。
参道途中には、日蓮上人が足を洗ったと言われる井戸があります。
参道入口から県道を右へ進むと、東石清水八幡宮があります。
鳥居を過ぎると随身門があります。宝暦6年(1756年)に建立されました。市の文化財に指定されています。
その先には、青銅製の鳥居と社殿が建っています。
永承6年(1051年)に源義家が奥州征伐へ向かう際、この地に石清水八幡宮を遥拝して戦勝を祈願し、平定の後に八幡宮を勧請したのが始まりと言われています。
青銅製の鳥居は佐野天明の鋳物師を呼んで建立させました。かつて日光例幣使街道を歩いた時に、天明宿(佐野)星宮神社にも銅製の鳥居が立っていました。また、街中では天明鋳物製の電話ボックスを見かけました。
青銅製の鳥居と社殿は埼玉県指定の有形文化財になっています。
県道に面した西の角には江戸時代の高札場が立っています。もともとは違う場所にありましたが、この場所に移設されました。
再び玉蓮寺の境内を通り、鎌倉街道に戻ります。
かつての養蚕技術の伝習所であった競進社模範蚕室の脇を進みます。
鎌倉街道はT字路に出ます。その先は突き当りから左折してすぐの角を右折します。本日の街道歩きは、このT字路までとして、右折してJR八高線児玉駅へ向かいます。
右折してすぐの突き当りにある児玉駅に到着しました。時刻は15:15。今日は6時間5分の行程でした。
次の列車までなんと1時間もあったので、先ほどの十字路近くにあるカフェで休憩しました。
1時間後に八高線に乗り込みましたが、久々のジーゼル列車です。ジーゼルエンジンの加速音や短いレールのガタゴト音は,、学生時代の北海道旅行を懐かしく思い起こさせてくれました。