今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(11)西大家から大橋 その3

 

2024年1月13日

 

川角

 

 鎌倉街道のB遺跡から西へ外れて、崇徳寺跡を通り、町道を横断した先の林の中に、延慶の板碑が立っています。高さが3mほどある大型のもので、延慶3年(1310年)の銘が刻まれています。板碑は供養塔として使われたものです。材質は板状に加工しやすい秩父産の緑泥片岩が用いられています。

 

 十字路に戻り、左折して鎌倉街道に入ります。左手の特別支援学校と右手の大類グランドの間を、越辺川に向かって緩やかに下っていきます。

 街道の両脇には、鎌倉時代から室町時代にかけての集落跡が見られ、発掘調査では東海地方の陶磁器、北九州の石鍋、中国の青磁なども見つかりました。越辺川を利用した舟運が盛んだったことを示しています。この遺跡は堂山下遺跡と呼ばれていますが、ここが中世の苦林宿ではないかと推定されています。先ほどの歴史民俗資料館に苦林宿のイラストがありました。

 

 ゲートボールが行われている大類グランドの脇を、鎌倉街道は通り抜けます。

 

 鎌倉街道は越辺川沿いの町道に突き当たります。ここにも鎌倉街道上道の標識が立っています。

 

 この先の街道は途切れていますが、ガードレールの切れ目から川岸まで行ってみます。

 

 もちろん、川の流れを見るだけです。何らかの痕跡はありません。

 

 町道を左へ入り、すぐの橋で越辺川を渡ります。橋は工事中でしたが、歩行者は通れます。

 

 橋を渡った先にあるリサイクルプラザの手前右手の道に入ります。

 

 道なりに進むと城西大学のグランドに突き当たるので、手前を左折します。

 

 広々とした田んぼの中の十字路を右折します。

 

 空がとても広いですね。

 

 突き当りを右折します。

 

 さらに、田んぼの中を進みます。

 

 乗馬クラブの馬も暖かそうです。

 

 毛呂山町から鳩山町へ入り、突き当りは右です。

 

 道の先には、越辺川の作る崖線の上に広がる今宿の住宅地が見えてきます。越辺川は蛇行を繰り返し、ここまで沖積平地を歩いてきたことになります。

 

 今宿の街中に入ります。

 

 川沿いの道に出ます。先ほど途切れた鎌倉街道はこの辺りを通っていたと言われていますが、全く痕跡はありません。さらにこの先も、区画整理されている街中を通っていたようです。

 

 道端には常夜燈が立っています。東側から見ると、「水上安全」「今宿川岸」と記されています。舟の水上安全を祈念して建てられてようです。今宿という名前は対岸の苦林宿に対して「新しい」という意味で使われたそうです。

 

 常夜燈の先は区画整理の中を進みます。常夜燈の前を左折して、次の十字路を左折、さらに次のT字路を右折すると、左手には八坂神社があります。

 

 鎌倉街道と関係あるかと思いましたが、創建は寛文3年(1663年)に京都の八坂神社から悪病退散のため勧請したと言われ、祭囃子が町の無形民俗文化財に指定されています。

 

 八坂神社の先の角を左折して、通りを突っ切って、歯科医院の前を右折します。その先にある公園で一時休憩します。

 

 さらに郵便局裏の橋を渡り、左折するとすぐのところで県道に通じる路地を右に入ります。

 

 県道171号に出るところには歩道橋が立っています。鎌倉街道は左折して県道に入りますが、苦林野古戦場へ寄るために、右折します。

 時刻は11時前ですが、その先の今宿交差点を左折してすぐのラーメン屋で昼食を摂ることにします。11時の開店前ですが、すでに行列ができていました。太麺の魚介系スープで美味しくいただきました。

 

 50分ほど休憩してから、今宿交差点に戻り左折して、再び越辺川を渡ります。毛呂山町に戻ります。

 

 すぐの押しボタンの信号のある交差点を右折します。

 

 

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