2023年5月21日
白須賀
遠州灘の浜沿いを通ってきた東海道は風光明媚な潮見坂を上り、標高70mほどの台地の上(潮見坂上)に出てきます。左手にある小スペースの一角には、東からの旅人に背を向けて立つ潮見坂公園の石碑があります。
この場所は、天正10年(1582年)、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張へ帰る際に徳川家康が茶亭を設けてもてなしたところと言われています。大正13年(1924年)に潮見坂公園として整備されました。現在は公園跡に中学校が建てられています。
明治天皇御遺跡地記念碑も立っています。明治元年(1868年)に明治天皇が東京へ行幸する際に初めて太平洋をご覧になった場所と記されています。
左手、柵に沿って奥へ進むと東屋があり、そこでしばし休憩します。
公園跡からの眺めです。
ここからの眺めは、遠江八景「潮見晴嵐」と呼ばれています。遠江八景は浜名湖周辺の歴史的・文学的・美術的背景を持つ優れた景観を遠江八景選定委員会が平成26年(2014年)に編纂したものです。そういえば、中山道歩きで、琵琶湖のほとりに近江八景「粟津の晴嵐」がありました。この先の東海道と中山道の相乗り区間にあります。
中学校と小学校の脇を抜けると、白須賀の町に入っていきます。
趣のある町並みです。
少し下っていきます。
正面に桝形が見える手前のT字路角には道標が立っています。
鷲津停車場往還と記されています。東海道本線鷲津駅へ通じていました。
白須賀宿
白須賀宿の江戸口にあたる桝形を通ります。ここは曲尺手(かねんて)と呼ばれ、敵の侵入を阻む軍事的な役割と、大名行列がかち合わないようにする役割をもっていました。
かつて大名行列同士がすれ違う際には、格下の大名は籠から降りて挨拶をするしきたりがありました。行列の進行役は殿さまにそのようなことをさせまいと、曲尺手まで出向いて先の様子を偵察し、格上の行列が近づくようであれば、自分の行列を近くの寺などに待避させたそうです。
その先の右手には大村本陣がありました。標柱と説明板が立っていますが、車に倒されたのか、残念ながら傾いて立っていました。
すぐの隣には脇本陣の石碑跡が立っています。
さらに、その先のバス停のあるあたりには問屋場がありました。夢舞台の道標に記されています。
信号のある白須賀交番前交差点を越えた民家の塀脇には、幕末の国学者夏目甕麿(みかまろ)邸跡とその長男の加納諸平生誕地の石碑が立っています。諸平は紀州藩国学所総裁を務めました。
その先は普通の家並みが続きます。
神明宮があります。
宝永4年(1707年)に発生した地震と津波の被害を受けて、翌年、宿場町は元白須賀から高台にあるここ白須賀宿へ移ってきました。これにより、津波の心配はなくなりましたが、この地は冬季の西風が強く、たびたび、火災に見舞われるようになりました。このため、土壁と火に強い火防樹として槇の木を植えた火除地が設けられました。
説明板の裏に立つ木が火防樹として植えられた槇の木でしょうか。確かに、浜松地方では生け垣としても槇の木をよく見かけます。
庚申堂跡です。かつては立派なお堂が建っていました。黄金の三猿、見ざる、聞かざる、言わざるが座っています。
火除け地跡の石碑が立っています。
東海道は左へカーブします。カーブの右手には境宿と記された夢舞台の道標が立っています。このあたりは境宿と呼ばれ、白須賀宿の加宿でした。
ちょうどカーブする場所のT字路には谷川道の道標が立っています。
T字路の反対側の角には高札場跡の碑が立っています。
やがて、県道173号と合流します。
道の反対側には笠子神社の社標が立っているのが見えます。
県道から右の旧道に入り、さらに境宿地区を進みます。かつての境宿では名物の柏餅を振る舞う茶屋がありました。広重の浮世絵にもその茶屋が描かれています。
また、この地は猿ケ馬場とも呼ばれ、その名にまつわる謂れが残されています。
豊臣秀吉が小田原攻めに向かう際、境宿の茶屋に立ち寄り、老夫婦から柏餅を供されました。その後、北条氏に勝利した秀吉は帰り際にこの茶屋に再度立ち寄り、ここの柏餅を「勝和餅」と呼ばせるようにしました。また、顔がしわくちゃな茶屋の老婆に対して猿がばばあと呼んだと言われています。「猿がばばあの勝和餅」が訛って「猿ケ馬場の柏餅」になったそうです。
すぐに、県道と合流します。
信号のある交差点まで来ましたが、その先の右側の歩道が工事中のため、県道を横断して左側を歩きます。
境川に架かる境橋を渡ります。
長かった静岡県と別れを告げて愛知県に入ります。昨年11月に箱根峠を越えてから、延べ12日かけて静岡県を通過しました。
その先の一里山東交差点で国道1号に突き当たるので、右折して国道に入ります。