今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(19)新居町~新居宿~白須賀宿~二川宿~二川 その2

 

2023年5月21日

 

浜名

 

 かつての宿駅があった橋本地区を抜け、浜名旧街道と記された松並木の道を歩きます。江戸時代から続く松並木でしたが、昭和に入って松くい虫にやられてしまいました。その後、松並木は復元され、今を行く旅人は往時の街道の雰囲気を味わうことができます。松並木は田園風景を背にして街道の南側に、北側には民家とその裏手には高台が続いています。

 

 途中、歌碑が立っています。

 

 歌碑には、為家夫妻の歌が刻まれています。

  風わたる 濵名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舩  前大納言為家

 藤原為家鎌倉時代歌人で、「続後撰和歌集」や「続古今和歌集」を編纂しました。この歌は続古今和歌集に載っています。「濵名の橋」が出てきます。

  わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで  阿佛尼

 阿佛尼は為家の継室で、晩年、鎌倉へ下った紀行を記した「十六夜日記」に載っています。

 

 松並木も終わりになります。

 

 立場跡の標石が立っています。あるお殿様が茶湯を勧められて、「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯れ歌を残したと言われています。

 

 道が狭くなります。立場茶屋のあった大倉戸の町並みです。

 

 高台にあるのは秋葉神社です。

 

 左手、木々の中には明治天皇御野立所址碑が立っています。明治元年(1868年)の東幸の際にこの地で休憩をしました。そして、この先の新居宿の飯田本陣に宿泊されました。

 

 建設中でしょうか、道路の下をくぐります。

 

 工事中の道路をくぐると、白須賀地区に入ります。

 右手には火鎮(ほずめ)神社があります。火之迦具土神品陀和気命と共に徳川家康が祭神になっています。徳川家康の崇敬を受けていました。

 

 かつての白須賀宿に入ります。白須賀とは「白い砂浜が広がる場所」といった意味だそうです。

 

 元町地区です。初期の白須賀宿遠州灘に面したこの辺りにありました。しかし、宝永4年(1707年)に起きた大地震津波で甚大な被害を受けました。これにより、翌年、白須賀宿は宿場ごとこの先の高台へ移ることになりました。新たに整備された白須賀宿に対して、この地は元白須賀と呼ばれるようになりました。

 

 趣のある町並みが続いています。

 

 民家の脇には一里塚碑と高札場跡の碑が立っています。一里塚碑の方は文字が読みづらくなっていますが、「一里山旧址」と記されています。白須賀の一里塚、もしくは、元町の一里塚と呼ばれ、日本橋から数えて70里目の一里塚です。

 

 内宮神明社があります。白壁のある参道です。

 

 まだまだ、元白須賀の町並みは続きます。正面には国道42号の高架が見えてきます。

 

 左手にある中丁公会堂を過ぎ、その先の右へ入るT字路で東海道は右折します。

 

 浜沿いの道から右折して坂道を上ります。

 

 急な坂道です。潮見坂と呼ばれています。

 

 坂の途中で振り返ると遠州灘がうっすらと見えます。水平線と空の色が混ざり合っているのも、これはこれで良い景色です。上っては振り向き、上っては振り向きしてベストショットを狙いました。電線や国道がないともっと街道の雰囲気を味わえるのですがね。

 

 T字路を右折してさらに坂を上ります。

 

 T字路から坂下を見ると、こちらは海辺に白波が立っています。

 

 さらに坂道を上ると、潮見坂の説明板が立っています。潮見坂は東海道屈指の景勝地と言われ、数々の紀行文にも出てきます。西から来た旅人がここで初めて大海原と富士山を眺めることができる場所でした。

 

 説明板には歌川広重の「東海道五十三次内 白須賀」の浮世絵が載せられています。遠方に大海原を見ながら、大名行列が坂を下っていきます。

 

 その先で、台地の上へ出ます。

 

 左手には、歴史文化施設 おんやど白須賀があります。開館まであと15分ほどでしたが、さほど疲れていないので先へ進むことにしました。もう少し待っても良かったのですが。

 

 おんやど白須賀の道を隔てた向かいには、台地の上に広がる畑を眺めることができます。

 

 おんやど白須賀の前の街道を進むと、正面には白須賀中学校が現れ、道なり左へカーブします。さらに、中学校に沿って道なりに右へカーブします。

 

 左手には小スペースがあります。

 

 

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