今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(13)武蔵嵐山から能増 その3

 

2024年2月17日

 

奈良梨

 

 奈良梨交差点から八和田神社へ向かいます。交差点脇に立つ一の鳥居から参道を歩き、二の鳥居の前に出ます。

 八和田神社は武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重の従弟、頼忠が流浪の末、この地を訪れて諏訪大社を勧請したのが始まりとされています。その後、徳川家康に仕えた頼忠の長子である頼水がこの地を与えられ、改めて諏訪大社を勧請しました。明治に入り近郷の神社の合祀により、八和田神社と改められました。

 

 拝殿の彫刻が見事です。

 

 拝殿の脇には御神木の大スギがそびえ立っています。目通り5.6m、樹高30mあります。逆さ杉と言われ、天正18年(1590年)に奈良梨に入った諏訪頼水が所領を定める際に、信州諏訪から投げた杉の木がこの地に刺さったものと言われています。(すごい!)

 

 神社の裏手に回ります。

 

 神社の東側には奈良梨陣屋跡の説明板が立っています。説明板によると、神社の東側に沿って直線状の土塁と堀が確認され、戦国時代から江戸時代にかけて、神社内に何らかの施設があったと推定されています。発掘調査においても特徴付ける遺物は発見されませんでしたが、広義の陣屋跡と見なされています。

 

 奈良梨交差点に戻り、寄り道のため、県道を右折して小川町駅方面に向けて歩きます。

これは、アートですね。

 

 坂道を上っていきます。

 

 八和田小学校前の押しボタン信号の先で右へ入ります。

 

 行人塚古墳へ向かいます。

 

 丘陵地帯の道を歩いて行ます。

 

 墓地の中を右折すると行人塚があります。方形塚ですが、雰囲気がつかめるでしょうか。

 

 説明板によると、このあたりは行人塚塚群と呼ばれ、周辺には15基の小さな円形や方形の塚が集まっています。当初は古墳群と見られていましたが、発掘調査の結果、埋納施設がなく、江戸時代前半に造られた奉祭機能をもった塚群であると見られています。

 

 再び、奈良梨交差点に戻ります。時刻はちょうど11時になったので、交差点近くにある蕎麦屋で昼食をとることにします。

 50分ほど休憩してから、鎌倉街道を北へ向かって歩き始めます。雲はいつの間にか消え、すっかり晴れ上がりました。

 

 すぐのところで左折して砂利道に入ります。まずは諏訪神社奉祀遺跡を目指します。

 これまで同じ道を辿っていた児玉往還は少し北へ行った先で左の道に入ります。

 

 民家の合間を抜け、二又は右へ入ります。庚申塔が梅の木をバックに立っています。

 

 竹林に入っていきます。

 

 竹林の道、雰囲気があります。

 

 さらに、土道を歩いて行きます。

 

 やがて、舗装道に出るので、右に入ります。

 

 その先で、普賢寺の墓地の中に入り、分岐を左折します。

 

 しばらく歩くと、諏訪神社奉祀跡の小さな祠と説明板が立っています。諏訪頼水がこの地を治めるようになり、諏訪から諏訪社を勧請した場所がこの地になります。この地は天王原と呼ばれ、今でも、毎年10月の八和田神社の祭礼では、神輿が渡御します。

 

 さらに、土道を歩いて行くと、

 

 舗装道路に出ます。突き当りの木々の間から、丘陵下の平地が望めます。

 

 傍らの説明板によると、この先の林には旧道の跡が埋もれています。地図を見ると、鎌倉街道はここ天王原遺跡から北へ「く」の字に続き、現在では3か所の旧道跡が確認されています。

 おそらく、普賢寺の墓地の中を左折したあたりからここまで、鎌倉街道の旧道をトレースしていたと思われます。

 

 先には進めそうにありませんが、掘割り状の遺構を見ることができます。

 

 遺構を直進できないので迂回するために、T字路を右折します。

 

 

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