2018年11月11日
醒井宿京口
地蔵川と分かれて、その先のT字路の角に中山道碑が立っていますが、このあたりが醒井宿の京側の入り口があったところです。
醒ヶ井駅へ通じる十字路を横断したその先、右手には六軒茶屋の説明板が立っています。幕府の天領であった醒井宿は、享保9年(1724年)、大和郡山藩の飛地領となりました。藩主・柳沢候は、彦根藩・枝折との境界を示すため、中山道の北側に、同じ形の茶屋を六軒、建てました。
その先で国道21号と合流し、国道を歩き始めます。
すぐに、丹生川に架かる丹生橋を渡ります。丹生は「にう」と読みます。
壬申の乱の際、この地も大海人皇子と大友皇子の本隊同士が激突した戦場であり、大海人皇子が勝利した場所です。横河の古戦場跡と呼ばれています。川の脇に説明板があったようですが見ていません。
このあたりは車の通りが多い割には歩道がありません。(写真は車通りの合間を縫って撮りました。)
国道を歩いて5分ほどで、左手マス料理の店「おたべ」の先で、右の道に入ります。
しばらくして樋口地区へ入ります。中山道の標識があり、「中山道ひぐち」と手書きで記されています。
国道21号から分かれて10分強で再び国道に出ます。樋口の交差点です。ここで国道を横断して直進します。
しばらく歩き、和佐川を渡ります。
すぐに街道は北陸道に遮られてしまうので、左へ曲がります。
道なりに高架の下をくぐります。北陸道と名神高速道路のジャンクションの近くです。
高架を抜けると右手に一里塚碑が立っています。小スペースではありますが整備されています。
久禮(くれ)の一里塚です。日本橋から数えて117里目の一里塚です。説明板が立っていましたが、色が落ちて読むことができませんでした。
中山道は一里塚碑の右手を進みます。
静かな里山の道です。
番場宿
やがて、町並みが現れ、番場宿に入ります。右手には問屋場跡の石碑が立っています。
すぐ先にも問屋場跡の石碑が立っています。陸路の中山道を運ばれた物資はここから米原道を通り、米原湊で船に移され、京へ運ばれました。ここ番場宿には、米原湊を控え、6軒の問屋場があったそうです。
その先、信号のある交差点に着きます。
交差点の右手の道が米原道で、下の写真は中山道から米原道方面を見たものです。交差点を渡る手前の右角には、番場宿の大きな石碑が立っています。
交差点を渡った右手角には、指差しの絵が付いた米原道道標が立っています。明治時代のものだそうです。
交差点を過ぎて右手には脇本陣跡の石碑が、その先には、問屋場跡の石碑がたっています。
さらに、本陣跡、問屋場跡の石碑が続きます。
ここの問屋場跡には、明治天皇御小休所の石碑も立っています。番場宿は残念ながら遺構は残っておらず、このような石碑が並んでいます。
左手には蓮華寺の寺標が立っています。お寺は高速道路の先にあります。また、境内には、瞼の母に登場する番場の忠太郎に由来する忠太郎地蔵があります。
その先の左手には、鎌刃城跡の案内板があります。応仁の乱の頃、この地は江北、江南の境界に位置していることから防御の役目のために城が築かれました。城跡はここから3kmほど離れた山の上にあるそうです。
このあたりから西番場に入ります。
西番場地区では古い町並みを目にすることができます。
やがて、高速道路の脇に出て、側道を歩きます。ここの楓も色づいています。
緩やかな坂を上っていきます。山里の中、たまに、車とすれ違うだけの道なのですが、高速道路を通る車の音がとてもうるさいです。