今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(22)東岡崎~岡崎宿~新安城 その4

 

2023年10月8日

 

矢作川

 

 岡崎城下二十七曲りをトレースして、途中で岡崎城址もざっと見て回りました。岡崎城は、まだまだ、見どころがあり、いつかはゆっくりと回りたいものです。

 岡崎城下を抜けて、矢作川に架かる矢作橋を渡ります。

 

 矢作川です。ここ矢作はかつて、舟運で栄えた要所で、上流から運ばれた木材や河口付近で生産された塩が運ばれていました。

 

 矢作川を渡ると、土手の上には「出会い之像」が立っています。後の豊臣秀吉である日吉丸と、後の蜂須賀小六で、盗賊の頭であった小六正勝が矢作橋で出会ったエピソードを題材にしたものです。しかし、矢作橋が架けられたのは秀吉が亡くなった後で、史実ではなさそうです。このエピソードは絵本太閤記にも描かれ、秀吉の人気を示すものと言われています。

 

 土手の上から、これから歩く東海道が一直線に続いています。

 

 土手からすぐの右手には勝蓮寺があります。織田信長から武田方に内通していたという嫌疑をかけられ、自刃させられた家康の長男信康にまつわる寺で、信康唯一の肖像画が残っています。

 また、門前あたりに、矢作の一里塚があったと言われていますが、場所は確定できていません。日本橋から数えて82里目の一里塚です。

 

 矢作地区を進みます。

 

 東海道の標柱も立っています。

 

 右手には、竊樹神社があります。「ひそこ」と呼ぶようですが、全く読めません。もちろん書けもしません。

 

 矢作川の土手から歩くこと15分で、再び国道1号に出るので、安城街道入口交差点を右折して国道に入ります。

 

 国道1号の歩道をひたすら歩きます。

 

 国道1号の歩道を15分ほど歩くと、左手には聖善寺が見えてきます。聖徳太子16才時の木像、孝養太子立像を安置しています。

 

 聖善寺の向かい、国道の右手には、薬王寺があります。奈良時代に創建されたと言われ、本尊は瑠璃光薬師如来です。この仏像は17年に一度御開帳されます。また、本堂は前方後円墳の後円部に建てられているそうです。

 

 その先、安城市に入り、東海道は右手の道に入ります。ここで、とうとう雨が降ってきました。しかしながら、しばらく先へ進んでみます。

 

 国道から旧道に入ると、松並木が続いています。尾崎の松並木と呼ばれています。

 

 右手には熊野神社鳥居が立っています。鳥居前の右手には、予科練の碑が立ち、ここには、戦時中、岡崎第一海軍航空隊の基地がありました。

 

 鳥居の左手には、常夜燈が立っています。

 

 また、この地には鎌倉街道が通っていて、神社の森を踏分の森と呼んでいました。ここで鎌倉街道は方向を変えていたようです。

 

 さらに、この辺りには一里塚がありました。尾崎の一里塚で、日本橋から数えて83里目の一里塚です。

 

 内外神明社の社標があります。伊勢神宮の内宮、外宮を勧請して祀っています。鳥居が参道からはみ出ていますね。

 

 左手には、明治天皇御駐蹕之所碑があります。明治天皇は、ここ宇頭茶屋で休憩されました。

 

 右手、永安寺には枝を大きく広げた雲竜の松を見ることができます。木の形が、雲を得て天に昇ろうとする竜に見立てられています。枝張りは東西17.9m、南北24.7mで、樹齢は約350年と言われています。素晴らしい松です。

 

 すぐのところで、明治川神社交差点に出ます。

 

 交差点角には明治川神社の大きな鳥居が立っています。明治川神社は明治18年(1885年)に創建され、3柱の水の神様と明治用水建設の功労者を祀っています。

 

 道路を隔てた右手の角には明治用水碑が立っています。明治用水は、幕末に不毛の地であった、ここ安城ヶ原に矢作川から水を引こうと計画がなされ、明治14年1881年)に完成に至りました。

 

 その先から松並木が続きます。雨は降ったりやんだり、傘を差したり閉じたりで、この先を考えて、今日の歩きは次の新安城駅までとします。

 

 右手には青麻神社があります。鳥居の脇には、明治に活躍した地元出身の力士、清見潟又市の像が立っています。

 

 国道1号から右に反れて50分、里町4丁目西交差点に着きました。本日の街道歩きはここで終了し、左折して新安城駅へ向かいます。

 

 そして、新安城駅に到着しました。時刻は12:10で、今日は4時間ちょうどの行程でした。名鉄線で豊橋まで戻り、新幹線で帰路につきました。

 

 

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