今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(25)桑名~七里の渡し・桑名宿~四日市宿~近鉄四日市 その4

 

2023年11月12日

 

矢田

 

 東海道桑名宿の七曲り見附跡を抜け、鍋屋町を通り、矢田町に入ります。右手には立坂神社の鳥居が立っています。本殿は鳥居の先、300mほど奥にあります。元々は矢田八幡社と言われ、本多忠勝以降桑名藩主の保護を受けてきました。明治に入り立坂神社と呼ばれるようになりました。

 

 さらに、矢田町の町並みを見ながら歩きます。

 

 東海道はその先の突き当りを左折します。

 

 突き当り右手には火の見櫓が復元されています。ここ矢田と左折した先の福江町には立場があり、茶屋などが集まって賑わいを見せていました。福江町の南端は桑名宿の入り口で、西国からの大名が通行する際は桑名藩の役人が出迎えに来ていました。

 

 福江町の町並みです。

 

 左手には了順寺があります。玉石の石垣と黒塀の先にある山門は桑名城から移築されたものです。

 

 その先の右手には大きな工場の敷地が続きます。フェンス脇には江場松原跡の標石が立っています。かつてはこの先から192間(約345m)の間、松並木が続いていました。両脇には家もなく、西は鈴鹿山脈、東は伊勢湾が見え、風光明媚な場所でした。今では松の木は1本も残っていません。

 

 東海道桑名宿のプレートがフェンスに架けられています。

 

 右手には城南神社があります。街道脇には大きな鳥居が立ち、その前には「皇大神宮一ノ鳥居御下賜」と記された石碑が立っています。こちらの鳥居は伊勢神宮内宮の式年遷宮ごとに一ノ鳥居を下賜されています。

 

 城南神社には垂仁天皇の皇女倭姫命天照大御神を祀る場所を求めて、この地に立ち寄ったという謂れがあります。その縁で、一ノ鳥居を下賜されるようになりました。

 

 右手には青雲寺があります。

 

 国道258号の高架の下をくぐります。左手にある地下道を通ります。

 

 国道をくぐると、旧道の雰囲気のある安永地区に入ります。

 

 静かな街道です。

 

 緩やかにカーブするのがいいですね。

 

 料理旅館玉喜亭の樹齢二百数十年の藤が有名です。

 

 十字路の先にはかつての安永の立場がありました。この地には町屋川の舟運の拠点で茶屋が集まっていました。

 

 十字路の右手には常夜燈が立っています。伊勢両宮常夜燈と言われ、文政元年(1818年)に道標として、そして、伊勢神宮への祈願として建立されました。堂々とした佇まいです。

 

 突き当りには「東海道五十三次 町屋橋跡」の説明板があります。寛永12年(1635年)にここから対岸まで板橋が架けられました。下の写真は板橋の架かったあたりです。対岸の東海道の続きは、左側の2つの紺色の建屋のうち、右側の建屋の右脇からになります。

 

 十字路に戻り、右折して国道1号に架かる現代の町屋橋へ向かいます。

 

 町屋橋の歩道を通ります。

 

 町屋川(員弁川)の上流側です。桑名の町は揖斐川に面していましたが、町屋川は伊勢湾に注いでいます。

 

 町屋橋を渡ると朝日町へ入ります。町屋橋南詰交差点を右折して、東海道へ向かいます。

 

 先ほど対岸の立場跡から眺めた東海道の続きへ左折して入ります。

 

 朝日町に入り小さな川を渡ります。橋本橋と記されています。朝日町の東海道沿いの歩道は白く色づけされていて、目立ちます。

 

 橋を渡ると左の土手上に公園スペースが見えるので、土手に上がってみます。

 

 水門に設置されていた水止めのモニュメントがあります。かつて町屋川の堤防には角落とし呼ばれる水門が設置されていて、川が氾濫した際に板を渡して水の侵入を防いでいました。実際に、昭和46年(1971年)の大水の際に活躍したそうです。しかし、道路の改良工事に伴い、今は撤去されました。

 

 上流方面にも堤防が続いています。

 

 東海道に戻り、縄生(なお)の家並みの中を歩きます。

 

 その先には一里塚がありました。

 

 

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