2023年10月21日
安城
新幹線で豊橋まで行き、豊橋からは名鉄に乗って、さらに東岡崎で乗り換えて、8:35に新安城駅へ着きました。今回は1泊2日で東海道を歩きます。天気は晴れで、気温は20℃くらいになる予報です。だいぶ歩きやすい気候なりました。8:40に駅を後にします。
10分弱でスタート地点の里町4丁目西交差点に到着し、左折して東海道に入ります。
どこの街でも見かけるような住宅街を歩いていきます。
その先、街道の両側には松並木が見えてきます。
立派な松の木ですね。
「東海道のマツ並木」の説明板によると、江戸時代の街道絵図「行程記」には、ここ里村から先日通過した尾崎村までの街道に松並木が描かれています。
石田川を渡ります。大正3年(1914年)建立の常夜燈と小さな社の神社が祀られています。
さらに、すぐのところで猿渡川を渡ります。橋の欄干には松並木を描いたレリーフが飾られています。
橋を渡ると知立市に入り、来迎寺西交差点に出ます。左手には来迎寺公園がありますが、明治23年(1890年)にこの辺りで陸海軍合同演習があり、明治天皇が観閲しました。その記念碑が公園の中に立っています。
すぐの右手の森には御鍬神社が鎮座しています。
御鍬神社の祭神は豊受比賈命(とようけひめのみこと)で、江戸時代に来迎寺村他八カ村が連合して伊勢から御鍬神を勧請しました。輪番で御鍬祭の奉仕を行い、村々の豊作を祈願してきました。
来迎寺町交差点の手前と奥の角には、無量寿寺道標が立っています。無量寿寺はこの交差点を右折して道なりに800mほど歩いたところにあります。付近はかきつばたの群生地として知られています。
元禄9年(1698年)に無量寿寺への道標として建立されました。「従是四丁半北八橋業平作観音有」と読めます。東海道には、この先500mのところにも元禄の無量寿寺への道標が立っているようです。
来迎寺の町並みを通ります。
その先には来迎寺の一里塚が残っています。北と南の塚、両方とも現存しています。こちらは南塚です。
北塚は公民館の裏に隠れています。
両塚を一枚の写真に入れるとこんな感じです。日本橋から数えて84里目の一里塚です。
地名となっている来迎寺は北塚の脇を右へ入ったところにあります。
牛田町地区を進みます。
西教寺の前を通ります。鐘楼の脇に鬼瓦が見えます。
左手には、見返弘法大師の道標がブロック塀にぴったりと付いて立っています。「従是十四丁・・・」と記されているようです。見返弘法大師は弘法山遍照院のことで、ここから、南西へ2.0kmほど行ったところにあります。
国道419号との交差点、新田北交差点の手前にも、無量寿寺の道標が立っています。「従是五丁北八橋業平作観音有」と刻まれています。来迎寺町交差点にも立っていましたが、こちらは元禄12年(1699年)に建てられたものです。
衣浦豊田道路の高架の下、歩道橋を使って下を通る国道419号を横断し、東海道の左手に渡ります。
これから先の東海道には松並木が続いています。知立の松並木と呼ばれています。
東海道の左手に渡ると、遊歩道が整備されています。
これは小林一茶の句碑です。
はつ雪や ちりふの市の 銭叺(ぜにかます)
一茶が池鯉鮒の市場の様子を詠んだ句で、銭叺とは銭を入れる藁でできた入れ物を指します。知立はかつて池鯉鮒(ちりふ)と言われていました。
石碑が二つ、手前は万葉歌碑、右手は馬市之趾の碑です。石碑の間には説明板があります。
(万葉歌碑)
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに
このあたりはかつて引馬野と呼ばれていました。
(馬市句碑)
かきつばた 名に八ッ橋の なつかしく 蝶つばめ 馬市たてし あととめて
池鯉鮒の馬市は、万治3年(1660年)頃の文献にはすでに記載されていました。しかし、万葉集の歌にも引馬野と記されていることから、さらに古くから市が開かれていたと考えられています。
広重の保永堂版「東海道五十三次内 池鯉鮒 首夏馬市」が掛られています。広がる首夏、初夏?の草原に馬が並べられ、なかなか、気持ちの良い絵です。中央には、東海道分間延絵図に示されている「談合の松」が見えます。この松の下で、人々が集まって馬の値段を決めていました。
松並木が終わると、東海道は国道1号に出ます。ここ御林交差点は斜めに突っ切りますが、横断歩道がありません。
交差点右手にある地下道を使って国道の反対側へ移ります。