今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(25)桑名~七里の渡し・桑名宿~四日市宿~近鉄四日市 その7

 

2023年11月12日

 

富田

 

 東海道はかつての「間の宿」富田の町の中に入ります。富田小学校の校門の前に「明治天皇御駐輦跡の碑(右の黒い大きい方)が立っています。明治元年(1868年)、明治天皇が東京へ下向する際に四日市で宿泊した後、ここ富田で休憩され焼き蛤を堪能しました。休憩に使われた廣瀬家は富田小学校のこの場所にあり、レンガブロックが往時の面影を残しています。明治天皇はその後、3度ほどここで休憩されています。

 

 十四川を渡ります。


 十四川の両脇には桜並木が続いています。1.2kmにわたり両脇に800本ほど植えられています。大正12年(1923年)に地元の有志が植えたのが始まりです。桜の咲くころになると桜の花のトンネルになることでしょうね。

 

 東海道沿いにある常夜燈は桑名川口から伊勢神宮までの導光の役割を果たしていました。この常夜燈には天保10年(1839年)と記されています。

 

 薬師寺があります。大同年間(806~810年)に疫病がはやり、人々は苦しんでいました。このことを聞いた弘法大師薬師如来を彫り開眼させるとたちまち平癒しました。人々はお堂を建てて薬師如来を祀りました。その後茂福城主朝倉盈盛(みつもり)が菩提寺として大伽藍を建立しました。しかし、永禄10年(1567年)に滝川一益によって焼失しましたが、本尊は自ら火中を逃れ、門前の松の木に避難されたと言われています。

 

 常照寺の前を通ります。常照寺は天文7年(1538年)、釈法導によって開山されました。当初は天台宗の寺院でしたが、後に浄土真宗本願寺派に改宗しました。

 

 東海道はその先で左へ曲がります。

 

 突き当りには力石が2つ並んで置いてあります。大きい方は32貫(120㎏)、小さい方は5貫(19km)で、小さい方は子供用ではないかと考えられています。

 

 さらに、クランク状に右へ曲がります。

 

 右折してすぐのところに證圓寺があります。永禄10年(1567年)に滝川一益に滅ぼされた茂福城主の子孫が住職を務めていました。

 

 その先に「左 四日市 右 いかるが」と記された小さな道標があります。右手の路地を入り、北西へ2km弱行ったところにある伊賀留我神社を指しています。伊賀留我神社は倭姫命天照大御神を祀る場所を求めて立ち寄った場所と言われ、延喜式神名帳に載る式内社です。

 

 茂福神社の社標の奥に鳥居が見えます。茂福神社は応永28年(1421年)摂津守政平が越前朝倉よりこの地に赴任する際に建速須佐男命と天照大御神を祀ったのが始まりです。その後、祭祀を受け継いだ茂福城主茂福掃部輔盈豊が永禄10年(1567年)に謀殺されて茂福城も落城しましたが、その意思が受け継がれ、祭祀が続けられました。

 

 県道68号線の高架をくぐると住宅地から工場の点在する地区に変わります。茂福地区から八田地区に入ります。

 

 米洗川(よないがわ)の手前に常夜燈が立っています。街道脇に建つ常夜燈は幕末に流行した伊勢参宮のための街灯や道標に使われました。この常夜燈は明治35年(1902年)と記されていますが、それ以前からの建て替えだと考えられています。

 この先の八幡地蔵堂はこの辺りにあったと言われ、茂福を抜けると現在の地蔵堂まで人家がなく行き来する旅人を照らしていたそうです。

 

 米洗川を渡ります。結構大きな石が敷き詰められています。

 

 八幡地蔵堂です。かつては先ほど通過した常夜燈付近に建っていましたが、昭和4年(1929年)にここ八幡神社跡に移されました。

 

 地蔵堂の隣の空き地の奥には「伊勢国八幡神社」の石碑が立っています。明治44年(1911年)に志氐神社(しでじんじゃ)へ合祀され、今では石碑のみが残っています。

 

 その先には街道の名残の松が1本立っています。「かわらず(河原津)の松」と呼ばれ、樹齢は200年余とのことです。

 

 羽津地区を通ります。

 

 志氐(しで)神社の鳥居が立っています。本殿は近鉄線を越えた先にあります。延喜式神名帳に記載の式内社でした。明治40年以降近隣の多くの神社を合祀しました。

 大海人皇子壬申の乱で吉野から桑名へ移動する際に、迹太川(とおがわ)のほとりから皇大神宮を遥拝したと言われています。このとき幣帛(しで)を奉納したことから、この地は「志氐」と呼ばれるようになりました。ちなみに、迹太川は朝明川とも言われていますが、特定はされていません。江戸時代に推定された遥拝所がここから2.5kmのところにあり、今も石碑が立っているようです。

 

 光明寺があります。弘仁年間(810~824年)に空海が大矢知村青木谷にお堂を建てたのが始まりで、当初は天台宗でしたが、後に浄土真宗高田派に改宗しています。享禄年中(1530年頃)羽津城主赤堀盛義が出家して寺に入り、浄土真宗高田派の後継者争いのもめごとの中、この地に移したと言われています。

 

 羽津地区を通ります。

 

 東海道は道なりに左へ曲がります。

 

 すぐのところで国道1号と合流します。

 

 しばらく歩いた先の金場町交差点の五差路の手前の角には道標が立っています。国道に面した面には「右 桑名道 左 四日市道」、国道の京側から見た面には「右 四日市道 左 大矢知道」と刻まれています。

 

 東海道は海蔵川に架かる海蔵橋の手前で左へ入ります。分岐の角に國實元三大師道道標が立っています。ここから北へ約3.5km行ったところにある垂坂町の観音寺を示す道標です。

 

 分岐の左手には多度神社があります。桑名にある多度大社から勧請された神社です。

 

 さらに進むと海蔵川の土手が見えてきます。

 

 土手に突き当たります。

 

 

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