今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(25)桑名~七里の渡し・桑名宿~四日市宿~近鉄四日市 その8

 

2023年11月12日

 

三ツ谷の一里塚

 

 海蔵橋の手前で東海道は左の旧道に入り、海蔵川の土手に突き当たります。往時はここから橋が架かっていました。また、東海道分間絵図には、橋の袂に一里塚が描かれています。現在は川の拡幅工事で一里塚の跡は川の中に取り残されてしまいました。このため、この土手上に一里塚碑が立っています。三ツ谷の一里塚で、日本橋から数えて99里目の一里塚です。

 

 土手上から海蔵川を望みます。

 

 下流側の土手道です。桜の並木が続いています。

 

 国道1号に架かる現在の海蔵橋へ迂回するため、上流側へ進みます。

 

 海蔵橋を渡ります。

 

 海蔵川の下流方面を望みます。

 

 橋を渡り終え、橋詰の交差点を左折して、その先土手下へ下り、道なりに右へカーブします。

 

 国道1号から東海道へ戻ります。ここからは直線道になります。

 

 海蔵川から10分ほど歩くと三滝川にかかる三滝橋に到着します。広重の保永堂版「東海道五拾三次之内 三重川」では、橋の上を立ち去る旅人と風で飛ばされた笠を追いかける旅人が描かれています。三重川と記されていますが三重川は存在せず、三滝川ではないかと言われています。

 

 三滝川下流方面です。さすが四日市、石油精製所でしょうか、大きな煙突が見えます。

 

 こちらは上流方面です。御在所岳方面の山並みが見えます。

 

 

四日市宿

 

 三滝川を渡ると四日市宿に入ります。左手には、なが餅の笹井屋の見世蔵が建っています。「名物 なが餅」を買って帰らないと。

 なが餅の説明書きによると、笹井屋は天文19年(1550年)創業で、藤堂高虎足軽の時、なが餅を食して「吾れ武運のながき餅を食らうは幸先よし」と言ったそうです。餡子の入った細長く焦げ目をつけた餅で、餡もさほど甘くなく癖になるおいしさです。

 

 その先、宿場の中心地に入ります。近藤建材店あたりは帯屋脇本陣でした。

 

 福生医院のあたりは問屋場がありました。

 

 問屋場跡の向かいのT字路を左へ入って寄り道します。

 

 細い路地を抜けると、

 

 中部西小学校の校門脇に四日市陣屋跡(四日市代官所)の説明板が立っています。四日市享保9年(1727年)~享和元年(1801年)の間の大和郡山藩領時代を除き天領でした。大和郡山藩領時代も含めこの地に代官所が置かれていました。

 

 東海道に戻り、右手、黒川農薬商会あたりは黒川本陣がありました。

 

 その先で変形十字路に出ます。

 

 角の民家の前には道標が立っています。文化7年(1810年)建立ですが、レプリカのようです。東側から見ると「すぐ 江戸道」、西がから見ると「すぐ京いせ道」と刻まれています。「すぐ」は「まっすぐ」の意味です。

 

 東海道は道標の角を斜めに突っ切っていたようですが、今は道が途切れているので、右手に曲がります。正面の国道1号は横断できないので、迂回のため、左折して諏訪神社前交差点へ向かいます。

 

 国道の反対側から見える斜めに入る道が、先ほど途切れた東海道の続きになります。

 

 交差点で国道1号を横断して、東海道に戻ります。

 

 すぐの右脇には諏訪神社があります。建仁2年(1202年)に諏訪大社より勧請したのが始まりと伝えられています。

 

 広重の保栄堂版の浮世絵が架けられています。先ほど渡った三滝川を描いたと考えられています。

 

 東海道はアーケードの商店街を通ります。中山道草津でもアーケード街をくぐりました。

 

 四日市のマスコットキャラ「こにゅうどうくん」です。

 

 アーケード街も終わり、中央通りに出ます。東海道は直進方面ですが、今日の街道歩きはここで終わりにします。右折して近鉄四日市駅を目指します。ちなみに、左折するとJR四日市駅に出ます。

 

 そして、近鉄四日市駅に到着しました。時刻は13:55です。今日は6時間ちょうどの行程でした。名古屋経由で帰路につきます。

 

 

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