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東海道(25)桑名~七里の渡し・桑名宿~四日市宿~近鉄四日市 その2

 

2023年11月12日

 

桑名城

 

 東海道から離れて桑名城址を見学しています。桑名城址は、現在、九華公園として整備されていますが、江戸時代の城郭からだいぶ様相が変わっています。橋を渡って本丸跡に入ります。本丸の南東角には辰巳櫓が建っていました。

 

 元禄14年(1701年)に天守が焼失してからは、三重の辰巳櫓が桑名城のシンボル的な存在になりました。しかし、戊辰戦争の際、桑名藩は新政府軍に恭順を示し、辰巳櫓を自ら焼き払いました。ここには大砲のモニュメントがありますが、教育委員会で作成した説明板でも由来等は不明と記されています。

 

 本丸から二の丸に向けては赤い欄干の橋が架けられています。

 

 これは変わった燈籠です。

 

 本丸の北側へ進むと鎮国守国神社があります。

 

 鎮国守国神社は松平定綱(桑名藩5代藩主、鎮国公)、松平定信(老中、白河藩3代藩主、守国公)を祭神として祀っています。鎮国公も守国公も久松松平家の系統で、家康の母、於大の方が家康の父、松平弘忠から離縁され久松家に嫁いだ系統になります。後に家康から松平姓を名乗ることを許されました。

 松平定信は幕府の老中職を務め、寛政の改革を行いました。田安徳川家初代宗武の七男で、久松松平家に養子に入りました。定信の長子である定永が桑名藩に国替えになった際に、白河に祀られていた守国公を桑名城本丸に移しました。

 

 神社の右手奥には天守台跡があります。元禄14年(1701年)の大火で焼失してから天守は再建されませんでした。天守台の上には、明治20年(1887年)に建立された忠魂碑が立っています。戊辰の役で犠牲になった桑名藩士を追悼するものです。

 

 二の丸堀に架かっている橋を渡って外に出ます。

 

 正保年間(1644~1648年)に作成された桑名城絵図が架けられています。

 

 橋の入り口でネコが見張っていますね。

 

 再び多聞橋を通ります。

 

 駆け足になってしまいましたが、20分ほどで桑名城址を巡り、東海道に戻ります。

 

 先の東海道を進みます。

 

 すぐの右手には青銅製の大きな鳥居が立っています。桑名宗社あるいは春日神社と呼ばれています。

 

 鳥居の左脇には「しるべ石(志類べ以志)」が立っています。自分の子供が迷子になったときに、左面の「たづぬるかた」に子供の特徴や服装を紙に貼っておき、心当たりのある人は右面の「おしゆるかた」に子供がいた場所を貼っておくといった連絡手段に使われていました。

 

 桑名宗社は桑名神社と中臣神社からなります。日本一やかましい祭と言われる奇祭、石取祭で有名です。祭前日の試楽日の午前0時の合図と共に、各町内の祭車の鉦や太鼓を一斉にたたくというものです。

 

 すぐに堀川沿いに出ます。

 

 北大手橋や多聞橋から見たように堀川沿いには桑名城の石垣が残っています。積み方は野面積みや打込はぎが使われています。

 

 東海道と堀川の間には歴史を語る公園があります。東海道五十三次をモチーフとして作られています。まずは、日本橋を渡ります。

 

 これは富士山ですね。

 

 このあたりは桑名宿でしょうか。堀川に降りる階段は明治になって造られたものです。

 

 木の葉も赤くなりかけています。

 

 そして突き当りを左折すると京三条大橋です。南大手橋と並んで堀川に架かっています。五十三次を再現させようとすると、とかくビジーな内容になってしまいそうですが、ここはそういうこともなくすっきりして良い雰囲気でした。

 

 東海道三条大橋や南大手門とは反対に突き当たりを右折します。

 

 すぐの右手で目を惹く洋館は石取会館です。大正14年(1925年)に四日市銀行桑名支店として建てられました。国の登録有形文化財に指定されています。

 

 県道613号との交差点、京町交差点を横断します。

 

 ひとブロック目の十字路を、東海道の標石に従って左折します。

 

 この辺りには京町見附がありました。

 

 

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