今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(25)桑名~七里の渡し・桑名宿~四日市宿~近鉄四日市 その3

 

2023年11月12日

 

京町

 

 東海道桑名城の石垣の残る堀川沿いを通り、南大手橋の前を右折して県道を渡った先を左折します。この辺りには、かつては京町見附がありました。道は桝形になっていて、門や番所が建っていましたが、今はその痕跡は残っていません。

 

 京町から吉津屋町に入ります。

 

 左手には道標が立っています。

 

 この道標は復元されたもので、手差しとともに「右 京いせ道 左 江戸道」と記されています。

 

 県道504号を横断して直進します。

 

 その先には吉津屋見附がありました。こちらも門と番屋が建ち、現在も桝形が残っています。江戸時代には鍛冶屋が多く集まり、吉津屋町から鍛冶町に町名が変わっています。門も吉津屋門とも鍛冶町門とも呼ばれていました。

 

 説明板の脇を右折して、コの字の桝形を通ります。すぐのところを左折して、

 

 さらに左折します。東海道の道標がそれぞれ立っています。

 

 その先を直進します。

 

 その先の、東海道の道標が立つT字路を右折します。

 

 新町地区を進みます。

 

 泡洲崎八幡社があります。泡洲崎八幡社は泡洲崎一帯の鎮守で、慶長年間(1596~1614年)に行われた町割りの変更で、西にある一色町から移ってきました。鳥居の脇には天保13年(1842年)に建立された道標があります。「右 きょういせみち 左 ふなばみち」と記され、元は先ほど通った新町北端に立っていました。

 

 泡洲崎八幡社の隣は光徳寺です。江戸中期に万古焼を始めた沼波弄山(ぬなみろうざん)の墓があります。明治に入って、日進小学校の前身である進善学校が開かれました。

 

 光徳寺の隣は十念寺です。慶長の町割りでこの地に移ってきました。明治維新桑名藩の敗北の責めを負って切腹した森陳明の墓があります。

 

 さらに、寿量寺です。寿量寺も慶長の町割りで一色村からこの地へ移ってきました。絵師狩野光信の墓があります。光信は江戸城の障壁画を描き、京都へ戻る途中、慶長13年(1608年)に桑名で没しました。

 

 県道401号を横断して直進します。

 

 その先には長円寺があります。寛政9年(1797年)、十一世住職は一枚の紙から連続した鶴を折る技法を考案しました。千羽鶴折型と言われています。

 

 街道は県道613号に合流します。この付近にも見附門があり、七曲見附と呼ばれていました。七里の渡しからここまで、7回曲がることから七曲と呼ばれるようになりました。

 

 県道に入ってすぐの日進小学校南交差点を右折します。

 

 東鍋屋町に入ります。

 

 東鍋屋町石取祭車蔵があります。桑名宗社の日本一やかましい石取祭です。

 

 右手には広瀬鋳物工場跡の碑が立っています。江戸時代の初めに桑名藩城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏をここに招き、工場を持たせました。このためこの地を鍋屋町と呼ぶようになりました。

 

 天武天皇社です。天武天皇元年(672年)の壬申の乱の際、大海人皇子(後の天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、天武天皇を祀るようになりました。古くは新屋敷にありましたが、この地に移ってきました。

 

 その先の十字路右手角には道標が立っています。北側から見ると、「右 伊勢 西京道 左 東海道 渡船場道」と刻まれています。

 

 道標の向かいには、一目連神社があります。この地が鋳物の産地であり、製鉄の神である一目連を勧請したと言われています。

 

 矢田町交差点で国道1号を横断します。

 

 交差点角の和菓子店は趣がありますね。

 

 交差点を越えると善西寺があります。永禄年間(1558~1570年)、織田信長に敗れた矢田城主の子孫が矢田城近く(北勢線馬道駅の近く)からこの地に移しました。黒塀がなかなか良いです。

 

 立坂神社の鳥居に向かって飛び出し坊やが。

 

 

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