今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(27)井田川~亀山宿~関宿~関 その3

 

2024年4月13日

 

亀山城

 

 東海道は亀山の城下に入ると、外堀の南側を東町、西町と通り抜けていきます。西の丸外堀発掘跡前で東海道から反れて、西の丸へ入ります。さらに、西の丸から多門櫓の脇を通り抜けると本丸にたどり着きます。かつての本丸には将軍家の宿舎である御殿が造られました。今は亀山神社が鎮座しています。

 

 神社の脇には大久保神官家棟門が建っています。標柱には、かつて亀山西小学校の裏門として使われていましたが、昭和30年(1955年)にこの場所に移築されたと記されています。

 

 本丸から来た道をたどり、コミュニティセンター角の十字路まで戻ります。十字路左手には蔵と長屋門が並んでいます。

 

 ここは亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡で、現在は公開されています。いわゆる武家屋敷跡です。保存状態が良く、長屋門と蔵が市指定の文化財に、敷地の大半が市史跡に指定されています。

 

 武家屋敷と桜です。

 

 再び、十字路に戻り、左折すると亀山城青木門跡に出ます。今は住宅地の中に埋もれていますが、この桝形の道だけが往時の桝形門の跡を残しています。

 下の写真の道を右に曲がると城外に出て、先ほど道標の立っていた東海道へ続いています。

 

 再度、コミュニティセンターの十字路に戻り、左折して外堀跡の前に出ます。T字路を直進して東海道に入ります。

 西町を西へ向けて歩きます。

 

 街道が左へカーブする先から下り坂になります。右手の街道脇には、京口門跡の説明板が立っています。東町にあった江戸口門と共に、惣構に設けられた門です。竜川の左岸の崖上に設けられ、往時は坂の下から見上げる門や番所の姿が壮麗なものでした。また、この場所は亀山宿の京口でもありました。

 

 その竜川を渡ります。往時は橋が架かっていませんでした。

 

 橋の上から京口門跡を望みます。歌川広重の保永堂版「東海道五十三次内 亀山 雪晴」では雪の積もった亀山城下の坂を上る大名行列が描かれています。この坂道と言われています。

 

 亀山宿西町を抜けて野村地区に入ります。趣のある町並みが続きます。

 

 橋を渡った街道脇から階段を下ると旧佐野家住宅があります。佐野家はこの辺りの大地主でした。説明板によると、この建屋は入母屋造妻入形式で、一般的な東海道沿いの旧家に見られる切妻造平入形式と比べると珍しいものだそうです。入母屋造妻入形式とは、妻(屋根と屋根の作る三角の面)側にも屋根があり(入母屋造)、妻側に入口(妻入)がある建屋です。

 

 森家住宅です。国の登録有形文化財に指定されていますが、現在は伊勢うどんの店になっています。

 

 森家住宅の前には東海道の標柱が立っています。

 

 野村地区の町並みが続きます。

 

 光明寺の鐘楼門の前を通ります。

 

 趣のある町並みはまだまだ続きます。

 

 左手には慈恩寺があります。阿弥陀如来立像を本尊としています。国の重要文化財に指定されています。

 

 信号のある交差点に出ます。右手の焼き肉店の壁には、御召替所跡の木標と説明板が架けられています。明治13年1880年)に明治天皇が伊勢参拝から東京へ戻る途中、陸軍の勢揃いをご覧になる際に、当家、内池家で休憩されました。

 

 信号を越えた先には一里塚があります。野村の一里塚で、北塚が現存しています。樹齢400年の立派なムクの木が立っています。日本橋から数えて105里目の一里塚です。

 

 町並みを抜けると、

 

 下の方に田んぼが広がります。東海道は高台を通っています。

 

 野尻の町並みに入ると左手には、亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡の標柱が立っています。打田権四郎昌克は元禄15年(1702年)に亀山藩領の地誌、九九五集を編纂しました。

 

 東海道は左へ大きく弧を描き、

 

 その先のT字路を右折します。角には東海道の標識が立っています。

 

 まだまだ、野尻の町並みが続きます。

 

 左手の鳥居から続く参道の先には布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社があります。布気皇舘太神社は延喜式神名帳に載る古社です。神戸郷七カ村の総社とされてきました。

 

 緑の多い神社脇を通る街道は一味違った雰囲気を出しています。

 

 神辺簡易郵便局の前を通ります。

 

 右手に入る路地の角には道標が立っています。

 

 白川道道標で、「右 白川道」と記されています。

 

 

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