2023年10月21日
知立宿
かつて、馬市が開かれていた野原を貫いていた東海道は国道1号を斜めに横断します。国道を横切ると道は2本に分かれ、東海道は左手の細い道に入ります。このあたりが知立宿(かつては池鯉鮒宿)の入り口と言われています。傍らには「東海道 池鯉鮒宿」と記された標柱が立っています。
知立宿の町を歩きます。
直線の道が続きます。
街道脇には常夜燈がひっそり立っています。
御林交差点から15分ほどで、T字路に突き当たります。
T字路の先の中町交差点で右手の細い路地に入ります。
仲町交差点の南側の家並みは趣がありますね。
細い路地を進むと、
ドラッグストアの駐車場の脇に池鯉鮒宿問屋跡の碑が立っています。この辺りから知立宿の中心地に入ります。
その先で信号のある交差点に出ます。東海道は直進しますが、ここで本陣跡碑に向かうため、左折します。
次の交差点、知立駅北交差点を右折します。
ファミマが角にある十字路の右手の、
駐車場の奥には本陣跡碑とひと際大きい明治天皇行在所聖蹟碑が立っています。当初は嶺家が務めていましたが、寛文7年(1667年)頃に永田家が本陣職を引き継ぎました。
再び、先ほどの交差点まで戻り、東海道に入ります。交差点を曲がった右手には本町公園がありますが、ここにはかつて脇本陣がありました。
脇本陣の向かいは「池鯉鮒宿銘菓 都築屋美廣」があります。明治8年(1875年)の創業ですが、かつてはこの場所に旅籠柳屋がありました。
さらに、知立宿を進みます。
この立派な建屋は本町の山車蔵です。知立祭りで巡幸される山車を収めています。知立祭りは知立神社の祭礼で、本祭と間祭を1年おきに5月に行っています。山車の上で演じられる文楽は有名で、300年近く続いているようです。ユネスコ無形文化遺産に認定されています。
T字路に突き当たり、東海道は右折します。この辺りには知立宿の京側の口がありました。正面には東海道の標柱が立っています。
T字路を右折すると、左手には知立古城址があります。街道脇には江戸時代前期の屏風絵が架けられています。知立城は桶狭間の戦いで落城した後、将軍が上洛する際の宿泊用御殿が建ちました。
中は公園になっていて、中央には知立古城址の石柱が立っています。
敷地の脇には御殿址の碑も立っています。
街道に戻ると、その先の正面には了運寺の鐘楼門が見えます。
了運寺の山門の前で街道は左へ曲がります。山門の脇には太子堂が建っています。その前に、知立三弘法第二札所と記された標柱があります。知立三弘法とは、一番札所の宝蔵寺、三番札所の慈眼寺、それと、了運寺になります。これとは別に、三河三弘法があるそうで、その一つが、知立の松並木手前の道標に記されていた見返り弘法の遍照院です。
弘法堂から右へ入る道は、知立神社(池鯉鮒宿大明神)へ続く参道道です。角の和菓子の小松屋本家の前には池鯉鮒宿大明神常夜燈があります。東海道はそのまま直進します。
ところで、今日は知立駅近くのホテルに宿泊しますが、今回は知立名物あんまきをお土産にと思っていました。ここが元祖あんまきの小松屋かと思いつつ、夕方に駅あたりで買えばいいかなと思い、何気なく通り過ぎました。しかし、あとでネットで調べてみると、大あんまきの藤田屋の知立駅店は駅改装工事中で休業中であることが分かりました。
その先で東海道は国道155号に突き当たります。ここは地下道を通って横断します。
地下道の入り口には「総持寺跡大イチョウ」の説明板が立っています。総持寺は元々知立神社の神宮寺と考えられていました。総持寺は嘉祥年間(845~851年)に創建されたと言われています。戦国時代に焼失しましたが、この地に再建され、承応2年(1653年)に総持寺に改められました。その後、明治5年(1872年)に廃寺になりましたが、大正15年(1926年)に、この先の西町新川で再建されました。
民家の塀の中に立っているひときわ大きなイチョウの木がそれにあたるのでしょうか。樹齢200余年と言われています。
国道155号を横切り、昔ながらの街道の道幅を残す住宅街を進むと、十字路の右手少し入ったところに常夜燈が2基立っています。ここを右折して、知立神社へ寄り道をします。
すぐの左手には知立花菖蒲園が広がっていますが、もちろん今は花は咲いていません。この公園の花菖蒲は昭和30年(1955年)から3回にわたって、明治神宮から下賜されたものを受け継いでいます。毎年、6月には菖蒲祭りが盛大に行われるそうです。
その奥が知立神社です。第12代景行天皇の時代(3世紀末から4世紀初)の頃、日本武尊がこの地で東国平定の祈願を行い、その後、無事に職務を達成したために、皇祖の四神を奉斎したのが始まりと言われています。
正面には多宝塔が見えます。嘉祥3年(850年)に建立されたもので、明治の廃仏毀釈を免れた貴重な建物となっています。国の重要文化財に指定されています。
境内に入ると神池があります。知立のかつての名称、池鯉鮒の元になった池です。今でも鯉が悠々と泳いでいます。石造りの橋は享保17年(1732年)に架けられたものです。
その先が本殿です。尾張でしか見られない尾張造りの様式が、ここ三河でも見られます。ネットによると、尾張造りとは、拝殿、祭文殿、本殿が回廊で繋がれている建築様式のことです。現在の建屋は江戸後期から昭和にかけて造営されたもので、国の登録文化財に指定されています。
今日は10月の下旬ということもあり、七五三のお参りで賑わっています。
東海道に戻り、しばらく歩くと、左手には総持寺の山門が建っています。かつての総持寺は知立神社の神宮寺で、先ほど通った大イチョウのあるあたりにありました。明治の神仏分離令により廃寺となりましたが、この地で再建されました。
徳川家康の次男である結城秀康の生みの親、お万の方は知立神社の神官の一族であったことから、お万の方の生誕地とされています。山門の脇には「徳川秀康之生母 於萬之方誕生地」と記された石碑が立っています。