2024年11月24日
和田多中
古代からの中心地、佐野を抜けると和田多中町へ入ります。街道の左手には「秩父巡礼の道しるべ」と記された標柱が立っています。特に説明書はありませんが、標柱の左面には「左 婦ぢおか ちゝぶみち 右 高崎」と記されています。左手の大きめの石は馬頭観世音と読むことができます。先人たちのブログでは、台座に行き先が記されているようです。
道しるべの先で、街道は鉤型に右手の細い道に入ります。鉤型の正面には双体道祖伸でしょうか、道端にひっそりと祀られています。
細い道の先には新幹線の高架が見えてきます。高架をくぐって、道なりに直進します。
細い街道の先には荘厳寺が見えてきます。
荘厳寺の南側(左手)には琴平神社があります。かつては、荘厳寺は琴平神社の別当寺でした。荘厳寺と琴平神社域を分ける門には、荘厳寺から見ると琴平神社を守る随神門になっています。
門をくぐって振り返ると、荘厳寺を守る仁王門になっています。珍しい門ですね。
琴平神社です。天狗が参道を守っています。琴平神社は高崎藩士寺田宗有が一昼夜にして讃岐から分霊を勧請したと言われています。天狗の技です。
荘厳寺と琴平神社の間の墓地の脇を歩ていくと、歩行者専用の橋を渡ります。その名も鎌倉街道橋です。上を通るのも、下を通るのも県道71号です。
橋を渡り終えると城南緑地と呼ばれる公園に出ます。
橋を降りた左手袂には鎌倉街道記念碑があります。この先、和田城(後の高崎城)までの鎌倉街道の道筋が記されています。和田城の南、興禅寺辺りは馬上宿と呼ばれる宿場があったそうです。
鎌倉街道は上信電鉄の線路と国道17号に遮られます。鎌倉街道碑から突き当りを右折してすぐの踏切を渡ります。
踏切を渡ると右折して、今度は国道17号を越えます。
国道を越えると左折して、下に走る国道を見つつ、その先で道なりに右へカーブします。
高崎の街中に入ってきました。直線の街道の先に高崎市役所の高層ビルが見えてきます。市役所は高崎城址に建っていて、ゴールも近くなってきました。
県道25号を越え、右手角に興禅寺のある十字路を左折します。興禅寺は高崎市内で最も古い寺で、新田源氏の祖、新田義重が治承元年(1177年)に開いたと言われています。
さらに、突き当りを右折します。
その先で、高崎城の堀に出ます。城址の南東の角にあたります。
鴨が優雅に浮かんでいますね。
堀沿いを西へ少し歩くと、高崎城内へ入ることができます。堀の内側には結構高い土居が築かれています。その先には市役所の高層ビルがそびえ立っています。
堀を渡った土居の脇には高崎城(三の丸外囲いの土居と堀)の説明板が立っています。
高崎城は、箕輪城主であった井伊直政が徳川家康の命を受けて、慶長3年(1598年)に当時和田城のあった場所を取り囲むように、新たに大きな城郭を築くことになり、それとともに、直政は和田という地名を高崎に変えました。
市役所の21階にある展望ロビーに寄り道します。こちらは北東側の眺めで、赤城山が望めます。
こちらは北西側の眺めです。烏川(右)と碓氷川(左)が眼下で合流しています。向こうの峰々は榛名山ですね。
市役所から音楽センターの脇を抜けると、乾櫓と東門があります。東門はこの場所から少し南へ戻ったところにあったもので、通用門として使われていました。この門は明治に入り、民間へ払い下げられていましたが、昭和になってこの場所へ移築復元されました。
この場所を鎌倉街道上道のゴールとしたいと思いますが、もう少し先へ進みます。
マンモスが。
乾櫓や東門のある一角から、県道49号を西へ向かいます。すでに陽が傾いてきました。
次の高松町交差点を右折して北へ5分ほど歩くと、郵便局の北側には土居と堀跡が残っています。
堀から出てさらに北へ歩くと、左手には高崎藩武家屋敷跡の説明板だけが立っています。この辺り一帯が武士の居住地でした。
左手には高崎神社があります。高崎神社は寛元元年(1243年)に和田城主の和田小太郎正信が和田城内に熊野権現を勧請して、熊野神社としたのが始まりで、慶長3年(1598年)に井伊直政が高崎城を築城する際に、現在の場所へ移したと言われています。そして、明治に入って高崎神社と名前が変えられました。
そして、本町1丁目交差点に到着しました。下の写真では、左手前から歩いてきました。右手前から左上への通りが中山道、右斜め上が三国街道となります。とりあえず、ここで鎌倉街道上道歩きは終了とします。
本町1丁目交差点を右折して、さらに、本町3丁目交差点を右折して、そのまま、あら町交差点を経由して高崎駅に到着しました。時刻は16:25で、本日は7時間45分の行程でした。
駅ビルでお茶してから、高崎線で帰路につきました。
*国土地理院の地図を加工しました。