2017年4月28日
細久手宿
細久手のバス停を過ぎてクリスタルクレイの工場を左に曲がります。
その先で細久手宿に入ります。
すぐの右手には、庚申堂への入口があります。庚申堂は寛政10年(1798年)に起こった細久手宿の大火の後に享和2年(1802年)に再建されました。
入口の脇には高札場跡の標柱があります。また、細久手宿概要と記された説明板も立っています。木の板に白ペンキを下地にして文字が手書きで書かれていますが、残念ながら、白ペンキが剥がれて読み辛くなっています。
細久手宿の町並みです。大湫宿のように山あいにあるのではなく、開かれた町並みで、違った雰囲気があります。
細久手宿は東隣りの大湫宿と西隣りの御嶽宿の両宿間が4里半と長く、両宿の人馬が難渋したため、慶長11年(1606年)年に仮宿を設けたのが始まりです。しかし、古い家はほとんど残っていません。
左手には細久手公民館があり、休憩所やトイレがあります。傍らには星あかり夢街道と記されたタイル絵が飾られています。これは和宮の行列をモチーフにしているのでしょうか。この絵の裏には細久手提灯祭りの絵が飾られています。
細久手提灯祭りは毎年7月に船の形をした山車に200個の提灯を提げて宿内を練り歩く祭りだそうです。
公民館のはす向かいには大黒屋が建っています。かつての尾州徳川家定本陣で、現在の建物は安政6年(1859年)に再建されたものです。本卯建・玄関門・式台・上段の間などが往時のままに残っていて、国の登録有形文化財に指定されています。
現在も旅館を営業されていて、多くの街道ウォーカーがここに宿泊しています。玄関前にいた大黒屋のおばあさんと少し話をして、おばさんの書いた宿場の説明文のコピーをいただきました。お年は94歳とのことです。
大黒屋の少し先の右手には本陣跡があります。今は石碑が立っているのみです。また、本陣のはす向かいは脇本陣がありました。
細久手宿を抜けると田園風景が広がります。
本陣跡から5分ほど歩くと、右手には九万九千日観音が石窟の中に鎮座しています。寛政13年(1801年)建立の一面六臂の馬頭観音で、「穴観音」とも呼ばれています。観音様の縁日に拝むと9万9千回分の御利益があると伝えられています。
新緑と桜、抜けるような青空です。ほんと、いい季節になりました。
その先、Y字路を右へ進み、しばらく歩くと右手の傍らに「旧中仙道くじ場址」と表記された小さな石碑が立っています。くじ場とは宿場の人足などが休んでいた場所で、人足が荷物を運ぶ順番を「くじ」で決めていたため名前がつけられたそうです。
中山道はセンターラインのある車道と合流します。
その先、平岩辻と呼ばれる交差点を横断して、急坂道を上って行きます。
かなりの高台に上がってきました。振り返ると今通ってきた平岩辻が遥か下の方に見えます。
すぐのところにY字路があり、左の土道に入ります。分岐には「左 仲仙道 西の坂」と刻まれた道標が立っています。
林の中、秋葉坂と呼ばれる坂道を上ります。
右手の少し高いところに秋葉坂の三尊石窟があります。右には、明和5年(1768年)の三面六臂の馬頭観音像、中央には一面六臂の観音像、左には風化の進んだ石仏がそれぞれの石窟に並んで祀られています。
明るい尾根伝いの道を歩きます。
秋葉の三尊石窟から10分弱歩くと、左手から合流してくる道があります。鴨之巣辻と呼ばれています。角には鴨之巣辻の道祖神とその標柱、「右旧鎌倉街道迠約一里余」と記された道標が立っています。鎌倉街道へ通じる追分となっています。関東ではお馴染みの鎌倉街道ですが、どこをどのように通っている道なのでしょうか。
その先には鴨之巣の一里塚があります。ここも両塚が現存しています。ここの一里塚は街道の両側に立っておらず、北塚が16mほど東(手前)にあります。尾根の上にあるという地形上の問題のためと言われています。日本橋から数えて、93里目の一里塚です。
また、説明板によると、この地は尾根の上にあることで、鈴鹿山脈、伊吹山、北アルプスを望むことができるそうです。
しばらく進むとくじあげ坂を下ります。一里塚の先で、御嵩町に入ったようです。
一里塚から17分、林を抜けると視界が開けて正面には津橋の街並みが見えてきます。
右手には、酒造業を営んでいた山内嘉助の屋敷跡があります。街道脇には、お城のような立派な石垣が残っています。中山道を通行する大名の休憩所としても提供していたそうです。
水が引かれていない棚田を眺めながらさらに下っていきます。
その先の突き当りを右折します。右手角には天満宮常夜灯が立っています。
十字路を横切ります。津橋地区に入りました。
十字路を横断して細い路地を進みます。T字路に突き当たるので左折すると、津橋川に架かる津橋が見えてきます。