2024年1月7日
女影
鎌倉街道上道の石碑から、住宅団地の中を道なりに直進して10分くらい歩くと霞野神社の前に出ます。
鎌倉街道は霞野神社手前で、二手に分かれます。東回りの道は途中で右折して住宅団地の中を通り、県道15号を横切って、JR川越線の鎌倉街道踏切を越えます。西回りの道は霞野神社の前を通って、女影交差点で県道と交差して、その先で女影踏切を越えます。
今日は西回りの道を通って霞野神社へ寄り、神社の脇から東回りの道へ入ります。
霞野神社前は五差路になっていて、左手に2本の道が伸びています。その道と鎌倉街道との角には道標が立っています。文字が良く見えないのですが、芳賀善次郎氏の著書には「左 入間川 右 阿須 八王子」と記されているようです。ここから八王子方面へ向かう道は、先ほど横断した国道407号の日光千人同心街道(日光脇往還)とは別のルートなのでしょうか?
霞野神社は、かつては諏訪神社と呼ばれていましたが、明治の時代に他の神社との合祀により霞野神社に変わりました。本殿は江戸末期の創建と言われています。
社殿の右手道路脇には、女影原古戦場跡の碑が立っています。鎌倉幕府が滅亡した後、建武2年(1335年)に執権北条高時の遺児高行が、かくまわれていた諏訪で挙兵して、この地で足利尊氏の弟直義軍を破りました。
西回りの鎌倉街道沿いには、霞野神社の先で下小畔川を渡ったあたりに女影宿があったと言われています。
そちらはパスして、霞野神社から東回りのルートへ向かうために、霞野神社の南側の道に入ります。すぐの住宅団地の2つ目の十字路を左折すると、下小畔川沿いの道に出ます。
東のルートは、その先で下小畔川に行く先を阻まれてしまうので、先の大神橋まで迂回します。
下小畔川の対岸沿いを戻り、途切れた街道の先の道に入ります。
やがて、県道15号に出ますが、横断してその先の道に入ります。
道なりに北へ歩いて行くと、
踏切を過ぎると、民家もまばらになり、田園風景が広がる道に変わります。
その先の右手は武蔵高萩駅前の区画整理地になっていて、新しい民家が並びます。別所橋で北小畔川を渡ります。
別所橋から5分ほど歩くと、押しボタン信号のある交差点に出ます。その先は広大な敷地に碁盤目の道路が巡らされた旭ヶ丘という場所になります。
交差点の先では、鎌倉街道はトレースされていません。
広大な敷地には民家や小学校、中学校、高校、グラウンドがありますが、ほとんどは畑となっています。
交差点から、真っ直ぐな道を8分ほど歩くと、左手に神社が見えるので、立ち寄ります。
旭ヶ丘神社です。
鳥居の前には「開拓碑」と「高萩飛行場跡」の碑が立っています。旭ヶ丘の広大な土地には元日本軍の飛行場がありました。その大きさは東西1,700m、南北1,300mで、主に士官学校の飛行訓練が行われ、昭和20年(1945年)の終戦まで使用されていました。
高萩北中学校角の十字路で鎌倉街道と交差する道の西方面を見ると、直線道が続いています。
東の方も遥か先まで直線道です。
旭ヶ丘に入り、20分弱歩き、直線の道は終わりになります。その先で左へカーブして信号のある交差点を通過します。
民家の点在する田園風景を過ぎ、工場の集まった道を通ります。
その先で、視界が開け、道は二又に分かれます。ここは右に入ります。鶴ヶ島市に入ります。
脇に水路が通る趣のある道です。
水路を跨いで、水路の左側へ移ります。
二又から8分ほど歩くと、車通りに突き当たります。右手角の車通りに面したところに「鎌倉街道(上道)」の説明板が立っています。説明板によると、ここまで通ってきた南北の道筋には掘割りの跡が残っていると記されていますが、気が付きませんでした。
突き当りを左折してすぐの右手の細い路地に入ると、すぐに県道74号に出ます。ここを右折します。
坂戸市に入り、東武越生線の踏切を渡ると県道は右へカーブしますが、鎌倉街道は直進します。しかし、今日の街道歩きはここまでとします。
踏切の右手には西大家駅があります。時刻は11:20で、今日は2時間55分の行程で、若干短めの街道歩きでした。
*国土地理院の地図を加工しました。