今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(10)入間川から西大家 その1

 

2024年1月7日

 

狭山市駅

 

 8:20頃西武新宿線狭山市駅に着きました。2024年最初の街道歩きになります。天気は晴ですが、結構寒くて風もそこそこ吹いてます。今日は狭山市の成人式があるようで、式典に向かう新成人達が電車から降りてきます。

 前回は清水八幡宮近くのバス停からバスに乗って西武池袋線入間市駅回りで帰りました。今日は狭山市駅から、スタート地点の国道16号との入間川3丁目交差点を目指します。8:25から歩き始めます。

 

 駅前から入間川小学校跡地を下っていきます。途中、入間川七夕まつりの説明板があります。江戸時代の中ごろから始まったそうです。

 

 駅前から公園を下ると、前回も通った図書館前に出ます。そのまま、同じ道を辿ると七夕通りとの交差点に出るので、今日はここを左折します。

 

 七夕通りを西へ歩き、次の交差点、中之坂交差点を右折します。

 

 その先で、本日のスタート地点の入間川3丁目交差点に出ます。国道16号を横断して、入間川に架かる新富士見橋を渡り、対岸にある八丁の渡しへ向かいます。

 

 新富士見橋より下流方面を眺めます。

 

 上流方面は、橋の名前通り富士山が良く見えます。

 

 新富士見橋を渡り切ったところで、右手の土手道に入ります。

 

 右手には河川敷が広がり、寒くなければ気持ちの良い散歩道です。

 

 前回、立ち寄った対岸の土手あたりを眺めます。実際の八丁の渡しはどのあたりだったのかはよく分かりません。

 

 河川敷も含めて、土手の左手も、入間川ニコニコテラスと呼ばれる公園になっています。

 

 駐車場から県道260号に出て、少しだけ左手に歩きます。すぐの信号のあるT字路の右手へ続く道がかつての鎌倉街道の跡ではないかと言われています。左手には民家が建っていますが、往時は八丁の渡しへ続く道があったのかもしれません。交差点を右折します。

 

 車通りも多い、普通の街中の道です。

 

 やがて、信号のある交差点に出ます。左右の道は先ほどの新富士見橋から続く通りで、交差点の名前は奥州道交差点と言います。奥州道とは鎌倉街道上道を指す名前でしょうか。

 

 交差点を右折して坂道を上ります。

 

 奥州道交差点のすぐのところに影隠地蔵が鎮座しています。木曾義仲の嫡男、義高が頼朝の追手に追われ、一時的に地蔵尊に身を隠したという謂れが残っています。往時は地蔵堂が建っていて、その中に地蔵尊が安置されていました。その後、度重なる入間川の氾濫でその場所は不明となっています。

 

 この上り坂の道は信濃坂と呼ばれ、その標柱が立っています。その脇に立つ「歴史の道」の説明板によると、鎌倉街道は「信濃街道」や「奥州道」とも呼ばれていました。

 

 街道は入間川の段丘崖を上り台地の上に出ます。このあたりは工業団地になっています。

 

 工業団地を抜けると、右手には智光山公園の木々が見えてきます。

 

 智光山公園には植物園や動物園、体育館などの運動施設、キャンプ場などもあるようです。

 

 圏央道の下をくぐります。

 

 南小畔川を渡ります。ここから富士山が見えます。また、南に加えて北小畔川も離れたところを流れていて、両川はこの先の川越市内で合流して小畔川となります。

 

 その先からゴルフ場の脇を通ります。

 

 信号のある交差点は直進します。

 

 国道407号との交差点で、鎌倉街道交差点と名付けられています。以前、日光千人同心街道を歩いた際、この交差点を南から北へ通過しました。

 

 しばらく平坦な道を進みますが、

 

 その先で、石垣の切通しの下り坂に差し掛かります。

 

 切通しの道は、右側がコンクリートの壁になっていますが、神流川に架かる橋の手前まで続いています。

 

 コンクリートの壁が切れたところに「鎌倉街道上道碑」の石碑と説明板が立っています。

 

 鎌倉街道は台地の上から下り、神流川の作る低地の中を進みます。

 

 低地部まで下りますが、そこから上り坂に変わり、その先は住宅団地が広がります。

 芳賀善次郎氏の「旧鎌倉街道探索の旅」では、住宅団地の途中の十字路を右折して、団地の中を通り、鎌倉街道踏切でJR川越線を越える東回りルートと、団地の中を直進して霞野神社の前を通り、女影踏切を渡る西回りのルートが示されています。まずは、西回りのルートに入り、霞野神社に立ち寄り、そこから東周りのルートに移ることにします。

 

 

鎌倉街道上道(10)入間川から西大家 その2へ続きます。