今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(11)西大家から大橋 その2

 

2024年1月13日

 

市場

 

 鎌倉街道高麗川の作る河岸段丘の崖を上っていきます。仏坂と呼ばれる掘割り遺構が見られる道から台地の上を進み、県道114号を横切りますが、その先の街道は田んぼの中で途切れてしまいます。このため、県道を通って迂回します。

 標識に従って、県道から右へ入ると旧道らしい道に出ますが、ここはまだ迂回路の途中です。

 

 県道から5分弱歩くと社会福祉施設の建屋の角で左へカーブするところに出ます。この先と、右手側が鎌倉街道の旧道となります。

 

 カーブの右手には鎌倉街道の掘割り跡が残っています。発掘調査では地中に道幅が2.8から3.2mで両側に側溝が埋まっていることが確認されました。埼玉県内の鎌倉街道の中では最も保存状態が良いと言われ、国の史跡に指定されました。毛呂山町教育委員会では鎌倉街道A遺構と呼んでいます。

 

 角に立つ鎌倉街道遺跡の標柱には説明書きも記されています。

 

 さらに、北へ向かいますが、その先の砂利道も鎌倉街道C遺跡とされています。

 

 これはネギ畑ですね。

 

 すまぬ。鎌倉へ急いでいるにゃ。

 

 大類と市場の境を歩いてきた鎌倉街道は県道39号に出ます。角には鎌倉街道上道の標識が立っています。ここは横断して先の道に入ります。

 

 県道を横断した先で舗装道が途切れ、T字路になっています。

 

 T字路を右に曲がって歴史民俗資料館へ向かいます。

 

 歴史民俗資料館の裏門から入ることができます。「祝 国史跡指定 「鎌倉街道上道」」と書かれた横断幕が架けられています。

 

 資料館の庭には西戸2号墳が展示されています。越辺川流域にあった西戸古墳群の一つで、平成2年度(1990年)の調査の後、石室がこの場所へ移されました。6世紀末から7世紀初頭に造られたと言われています。

 

 それでは、歴史民俗資料館を見学してみましょう。

 

 毛呂山流鏑馬についてのコーナーです。出雲伊波比神社の神事で、康平6年(1063年)に源義家が奥州征伐の戦勝のお礼に当社に八幡社を建てて、流鏑馬を奉納したのが始まりと伝えられています。毎年、秋には小学生から中学生の若武者が流鏑馬を披露します。埼玉県の無形民俗文化財に指定されています。

 

 鎌倉街道のコーナーもあります。毛呂山町内の鎌倉街道に点在する遺跡を記した地図を眺めると、これまで仏坂、A遺跡、C遺跡を通ってきました。資料館辺りの街道はB遺跡で、その先も、川角古墳群、堂山下遺跡(苦林宿跡?)、崇徳寺跡、延慶の板碑など見どころ満載です。

 鎌倉街道に戻り北へ進みます。この辺りは、毛呂山町教育委員会でB遺跡と呼んでいるところです。雑木林を縫うように街道が続いています。

 

 すぐに、十字路に出ます。下の写真は右手(東側)へ伸びる道です。いくつか古墳らしき盛り土が見られます。川角古墳群です。

 

 十字路近くの古墳の上には庚申塔が立っています。三猿がはっきり描かれています。延宝4年(1676年)に建立されました。

 

 十字路に戻り反対の西側の道に向かいます。下の写真の左右方向が鎌倉街道で、寄り道のため正面の特別支援学校のフェンス沿いの道に入ります。

 

 やがてフェンスも途切れたところで、右へ入る道が現れます。角には崇徳寺跡や延慶の板碑への標識が立っています。

 

 すぐのところに崇徳寺跡の標識が立っています。ここは中世の墓の遺跡で、この先に立つ延慶の板碑ももとはこの辺りに立っていました。板碑は13世紀後半から15世紀後半に建立され、建立されなくなった後は墓群の間に掘られた溝に埋められていたそうです。

 崇徳寺は貞治2年(1363年)の苦林野の戦で消失したと伝えられています。

 

 ここにも古墳をいくつか見ることができます。

 

 その先で町道に出るので、左斜め向かいの道に入ります。入口には延慶の板碑の標識が立っています。

 

 再び、林の中を分け入ります。

 

 

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