2024年4月12日
上野町
東海道は高台にある石薬師宿から坂道を下り、石薬師の一里塚跡あたりから先は、一部を除いて、その痕跡も分からなくなっています。このため、仕方がなく単調な国道1号の歩道をてくてく歩いていきます。国道の周辺は鈴鹿川の造る肥沃な土地が広がっていて、田植え前の水田が広がっています。この風景はわずかながら目を楽しませてくれます。
車はかなりのスピードを出して追い越していきます。
国道の歩道を歩いて20分弱で庄野町北交差点に到着し、ここを右へ入ります。
次の信号のある庄野町西交差点を左折します。
庄野宿
角には庄野宿碑が立っています。ここがかつての庄野宿の江戸側の入り口になっていました。
傍らには庄野地区まちづくり協議会に作成した庄野宿から石薬師宿の東海道の旧道の道筋が示されています。一里塚から国道をくぐった先、橋を渡ったあたりから、国道1号に合流するまでは旧道をトレースしていたようです。
庄野宿に入ります。
左手には善照寺があります。長禄年間(1457~1460年)の創建です。
旧小林家住宅は、現在、庄野宿資料館になっています。
街道脇には歌川広重の庄野白雨の浮世絵と説明が掲示されています。東海道五十三次の中でも傑作中の傑作と言われている作品で、鋭く一直線に降り注ぐ雨、顔を見せずに立ち去る人々、水墨画のような背景、白雨(夕立)の情景はすばらしいものがあります。
右手は問屋場跡です。
庄野町集会所付近には庄野宿本陣がありました。石碑が立っています。また、「距津市元標九里拾九町」と記された復元里程標も立っています。
道を隔てた角には高札場跡の説明板があり、脇本陣があったところです。
その先は、郷会所跡です。助郷を受けている村の庄屋の集まる場所でした。
庄野宿はまだまだ続きます。
延喜式内川俣神社があります。
二の鳥居をくぐり拝殿へ。
境内右手には、樹齢推定300年のスダジイの木がそびえ立っています。高さ11m、幹回り5mの巨木です。
東海道に戻るとすぐの十字路に庄野宿の碑が立っています。ここは庄野宿の京側の入り口でした。ここを左へ曲がるとすぐのところにファミマがあるので、水分補給のために寄り道をします。
東海道に戻ると、すぐに国道1号と県道27号の立体交差の交差点に出ます。東海道は交差点を斜めに横切っていますが、徒歩では当然ながら通り抜けできません。交差点の手前には東海道ウォーカー向けに、通り抜けのためのう回路の地図が示されています。
まずは、先ほどのファミマの駐車場脇にある地下道で国道をくぐります。
その先は、道なりに進むと今度は県道の下をくぐります。
さらに、道なりに田んぼの中を歩いて行くと、東海道の先の道に出るので、左折します。この角にも逆方向の人のために東海道の歩き方地図があります。
汲川原地区の町並みが見えてきます。
左手、平野道の道標が立っています。平野はここより南に流れている鈴鹿川の向こう岸にあります。
汲川原の町並みを通ります。
家並みが途切れた水路の手前、右手には神戸藩領界石が立っています。「従是東神戸領」と記されています。
街道の左手には、大きな女人堤防の石碑が立っています。この付近は安楽川と鈴鹿川が合流するところで、度々、大水害に見舞われていました。このため、藩主に築堤を願い出ていましたが、ここに堤防を造ると、右岸の城下が水害を受けることになるので、許しが出ませんでした。殿様に逆らうと極刑に処される決まりですが、水害を放っておくわけにはいきません。村の男たちが処罰されると村が成り立たなくなると思い、お菊ら女性200名ほどが立ちあがり、夜中に少しずつ堤防を造り始めました。そして、苦労の末、6年かけて堤防は完成しましたが、これが殿様の知るところになり、お菊らは処刑されることになりました。寸でのところで、家老の嘆願が入り、処刑は取り下げられ、逆に、命がけで堤防を造ったことに対して恩賞が与えられました。
そんな内容の碑文の写しが説明板には記されています。合わせて堤の位置が地図に示されています。
地図によると、堤防は碑の前から南北方向に続いています。こちらは南側の堤防のようです。
北側の堤防でしょうか。