2024年4月12日
中富田
東海道は汲川原地区から中富田地区へ入ります。街道の南側には鈴鹿川が流れています。家並みが途切れて、ちょうど、土手が見える場所に出ます。女人堤防の故事の通り、この辺りで、北側から流れる安楽川と鈴鹿川が合流しているようです。
道は二又に分かれますが、右手直進方向が東海道です。
左手には川俣神社が見えてきます。
今日、2つめの川俣神社です。鳥居の脇には「式内 川俣神社」と記された社標が立っています。鳥居は東海道に面して立っていますが、社殿自体は川の方へ向かって配置されています。
その脇には、中富田の一里塚跡の石碑が立っています。日本橋から数えて103里目の一里塚です。
さらに、その脇には、亀山領を示す領界石「従是西亀山領」が立っています。
静かな中富田の町並みです。
常念寺の前を通ります。常念寺はもとは同じ村内の別の場所にありましたが、安政元年(1854年)の大地震で倒壊し、後に、倒壊を免れた平建寺を買収してこの地に移ってきました。本尊は阿弥陀如来ですが、平建寺から祀られていた延命地蔵尊も地蔵堂に安置されています。
常念寺の先で西富田地区に入ります。右手にはひろせ道道標がひっそりと立っています。ここから北西へ1km強のところにある広瀬町には伊勢国府がありました。
弓なりに西富田の町並みを歩いて行くと、正面に安楽川の土手が見えてきます。
土手の手前の左手には、本日3つ目の川俣神社があります。
正面の階段を上ってみます。土手の先はグランドになっていますが、往時の街道にはこの場所に和泉橋と呼ばれる橋が架けられていました。
土手沿いに下流方面へ少しだけ歩き、現代の和泉橋へ向かいます。
土手上から西富田の町並みを望みます。
安楽川の上流方面です。
現代の和泉橋を渡り切り、右折して土手道をしばらく歩くと、東海道は左へ下る道に入ります。
分岐点から安楽川を望みます。ここが架橋場所だったようです。
街道が大きく右へカーブする角には小さなお堂が建っています。傍らの説明板には百八十八番供養塔と記されています。よく目にするのは、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番を合わせた百番供養塔ですが、こちらは、それに四国八十八か所を加えた供養塔になります。
その先で道は二又に分かれます。東海道は左の道ですが、地福寺の手前、右手のコンクリートの擁壁にある階段を上っていきます。
階段を上ると空き地になっていて、奥には観音堂跡と記されたプレートがあり、鬼瓦が残されています。
右手には明治天皇御小休所の石碑と旧和泉橋の親柱が置かれています。
西側には地福寺があります。その昔、道心が多く修業した場所で、七堂伽藍を備えた寺院でした。
東海道に戻り、県道641号に合流します。
県道に入り、関西本線の線路を越えます。
道なりに進むと亀山市に入り、その先でJR関西本線井田川駅前交差点に到着します。今日の街道歩きはここまでとします。
井田川駅に到着したのは15:30です。今日は6時間40分の行程でした。名古屋行きの電車に乗って、宿泊先の四日市に戻ります。