今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(7)西国分寺から東村山 その2

 

2023年5月3日

 

東恋ヶ窪

 

 恋ヶ窪村分水脇の鎌倉街道西武線の線路に遮られてしまうので、府中街道へ迂回して再び鎌倉街道に戻ります。しかし、すぐに府中街道と合流します。この先の府中街道はいつもながら渋滞しています。

 

 10分強歩いて渋滞を抜けると、公園の脇を通ります。

 

 国分寺市から小平市に入ります。

 

 次の上水本町交差点を右折して五日市街道に入ります。

 

 上水本町交差点を右折した先では、かつて二つ塚という地名が残り、鎌倉街道の一里塚があったと推定されています。写真のこの道は鎌倉街道の旧道ではありません。

 

 次の信号のある交差点を左へ入ります。先ほど歩いた府中街道の途中から鎌倉街道の旧道は右へ反れ、この交差点と繋がっていたようです。

 

 静かな旭ヶ丘中通りを進みます。

 

 右手には砂川用水の説明板が立っています。砂川用水も玉川上水から分水された用水です。この辺りは暗渠になっているのでしょうか。

 

 説明板の街道を隔てた反対側にも暗渠になっているのか、遊歩道が続いています。二ツ塚緑道という標柱が立っています。

 

 緑道の先を進むと上鈴木稲荷神社があります。享保8年(1723年)、この地の新田開発の際に親村である貫井村(現小金井市)の稲荷神社から勧請されました。

 

 拝殿です。

 

 境内には、桜の木と根本がつながったように南天の木が生えている南天櫻が立っています。さくらは神様の御座(みくら)を指し、南天は「難を転じる」と言われていることから大変縁起の良いものだそうです。

 

 鎌倉街道に戻り、その先を進むと、玉川上水の緑に突き当たります。

 

 少し右へ歩き、玉川上水を渡ります

 

 これはエゴノキですね。白い花が満開です。

 

 玉川上水を渡ります。橋の名前は「鎌倉橋」です。

 

 玉川上水です。承応2年(1653年)に、多摩川羽村から江戸市中への上水道として造られました。42.74kmの間を標高差わずか92.3mで水を通したことになります。

 

 玉川上水に沿って緑の遊歩道が続いています。たまに散歩に訪れますが、夏はぐっと涼しさを感じることができます。

 

 玉川上水に沿って北側には新堀用水が流れています。恋ヶ窪村分水や砂川用水の説明板でも示されていましたが、江戸時代には玉川上水の掘削のおかげで、玉川上水を中心とした北側、南側の水の得難い武蔵野台地の各地に用水が通り、人々の生活を潤し、人口も急増したとされています。しかし、それ以前の鎌倉街道を旅する人達にとっては不毛の地をひたすら歩く、大変な旅だったのでしょう。

 

 鎌倉橋を渡り、玉川上水からさらに住宅街の中の街道を進みます。

 

 住宅街の中に「津田町立坑 列車通過中 扉の開閉注意」と記された建屋があります。これは、下を武蔵野線の線路が通っているということですね。

 

 鎌倉橋から住宅街の中、直線の鎌倉街道を歩くこと10分で、たかの街道に突き当たります。たかの街道もお鷹の道同様に尾張徳川藩の鷹狩場と関係あるようです。

 

 左折してたかの街道に出て、すぐの一通の出口を右に入ります。角には鎌倉街道の標識も立っています。

 

 両脇には梨畑のネットが続いています。

 

 所々、小平市散歩道(鎌倉街道、五日市街道コース)の地図が立っています。

 

 まだまだ、直線の道が続きます。

 

 青梅街道との交差点の脇には鎌倉街道の説明板があります。

 

 さらに直進すると、畑やビニールハウスのある田園地帯に入ります。

 

 次の信号のある交差点も直進ですが、ここで交差点を左折して、休憩のために府中街道沿いにあるマックへ向かいます。

 マックへ向かう途中、南に並ぶ家並みの間に細い空き地が続く場所をいくつか見ることができます。これは、旧小川村の地割の痕跡だと思われます。かつての小川村は青梅街道を挟んで北側と南側に短冊状の地割が形成されていました。

 

 マックで昼食兼休憩を取って、40分後に先ほどの交差点に戻り、左折して鎌倉街道に戻ります。

 

 すぐに、正面にテニスコートのあるT字路に突き当たるので左折します。

 

 

鎌倉街道上道(7)西国分寺から東村山 その3へ続きます。

 

鎌倉街道上道(7)西国分寺から東村山 その1へ戻ります。