2022年4月2日
浅間町
環状1号を歩くと、新横浜通りとの交差点、浅間下交差点に着きます。歩道橋で新横浜通りを横断します。交通量の多い交差点です。
過去に歩いた街道の様子を備忘録としてまとめ終えました。およそ6年半の間、踏破したのは、五街道では中山道と日光街道、脇往還では日光御成街道、日光西街道、日光例幣使街道、日光千人同心街道等で、将軍家や例幣使、日光火の番が日光へ向かう街道を歩いてきました。
このブログのテーマは「街道歩き」ですが、「道」に焦点を当てています。宿場町へ向かう道の光景を思い起こすのも楽しみの一つにしています。このため、「右へ曲がって」とか、「坂道を上って」とか、どうでもいい写真が並んでいて、他の人が見るととても退屈な場面が多いんですよね。良くわかっています。
現在、甲州街道を歩いていますが、この冬から、なし崩し的に東海道も西に向かって歩き始めました。コロナの蔓延でなかなか先には進めていません。
バーチャル街道酒蔵巡りと勝手に称して、中山道を再び京へ向かって進んでいます。今現在は福島宿の七笑酒造さんまで到達しました。バーチャルと言っても本当にバーチャルで酒蔵を巡っているわけではなく、通販で順繰りに酒を買って、ちびちびやりながら、街道歩きを振り返っているだけです。自己満足ながら、江戸切子のグラス(頂き物)をかざしながら飲むのが最高の時間です。
街道歩きのリュックはなるべく軽くしているので、四合瓶といえども担いでは歩きたくはないと思いつつ、ついつい酒屋さんの前を通り過ぎているのがとても心残りでした。通販なので店先のようなお話を聞けないのが残念ですが、あたりを付けて購入させてもらっています。
こんなご時勢なので、友人とのシェアはキャンプならいいかなあと思い、焚火にあたりながら、みんなで頂いております。
松尾芭蕉は奥の細道の旅を始めるにあたり、元禄2年(1689年)、深川から舟に乗って千住に降り立ちました。見送りに来てくれた多くの門人たちとの別れを惜しみ、矢立て初めの句を詠んでいます。
ゆく春や鳥啼き魚の目は泪
ゆく春を旅立つ自らに重ねたこの句は、見送りに来てくれた門人たちとの惜別の念が込められています。芭蕉は46才という高齢で、何があるか分からない最果ての奥州へ旅立つわけで、ひょっとしたら死を覚悟していたかもしれません。
芭蕉は奥州へ向かう前に日光西街道を通って日光へ寄っています。
あらたうと青葉若葉の日の光
日光の東照宮をはじめとする寺社の荘厳さを陽の光に重ねて詠んだものだそうです。
中山道でも多くの芭蕉句碑を目にしました。必ずしも、芭蕉がその地で詠んだ俳句が刻まれているわけではありませんが、江戸の昔から現代まで、多くの熱烈なファンがいるということですよね。
これらの句碑ですが、なかなかの達筆でどれも何と書いてあるのかよく分かりません。脇に立つ説明板やガイドブックを見つつ、俳句の描く情景を勝手に膨らませています。
「不易流行」とか「軽み」とか、難しいことはよく分かりませんが、松尾芭蕉は俳諧を言葉遊びから文学へ持ち上げた俳聖。凡人の私でも、なるほどと唸るところもありました。もちろん、何のことやら分からない句の方が多いのですが。
甲州街道歩きの初日、土曜日の麹町付近を歩いていた時のことです。赤信号で車が一斉に停車した一瞬の静けさの中、冬の冷たい風で歩道の上を転げ回る枯れ葉の音だけが耳に入ってきました。
冬枯れや世は一色に風の音
この句は中山道深谷宿手前の愛宕神社にある句碑に記されています。
現代の日光西街道(壬生通り)を喜沢の追分から今市の追分まで辿りました。途中の楡木の追分から今市までは日光例幣使街道との相乗り区間となっていて、特に、今市までの杉並木は例幣使街道の杉並木として一般に知られていますが、このブログでは日光西街道に統一しました。
日光西街道は日光街道の脇往還という位置づけになっています。しかし、将軍家の日光社参の帰り道はこの街道を通ることがありました。また、日光街道と比べると日光西街道の方が2里ほど距離が短く、日光を目指す旅人の多くは日光西街道を選んだと言われています。このため、主要な幹道だったと思います。
この街道では、杉並木以外は往時の雰囲気はあまり残っていませんが、様々な神社仏閣に加え、下野国分寺跡、古墳群、壬生城跡、鹿沼の彫刻屋台等見どころが多くありました。そして、比較的多くの一里塚が現存していました。