今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(3)東神奈川~神奈川宿~保土谷宿~戸塚 その2

 

2022年4月2日

 

神奈川宿

 

 宮前商店街を歩くと右手には洲崎大神があります。洲崎大神は、建久2年(1191年)源頼朝安房国安房神社より勧請したのが始まりです。江戸名所図会を見ると鳥居の街道を隔てた前が海になって、船着き場がありました。

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 鳥居から急な階段を上り境内に入ると、広い階段のさらに先に拝殿が立っています。

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 街道に戻り、その先の右手には甚行寺があります。明暦2年(1656年)に創建されました。横浜開港時にはフランス公使館として使用されました。

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 再び、宮前商店街のゲートをくぐると、国道1号第二京浜)に出ます。

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 国道1号を右に進むと、青木橋を渡ります。橋の袂には京急線神奈川駅があります。青木橋JR東海道線京急線を跨ぐ橋です。明治になって、本覚寺と幸ヶ谷との間を削って、新橋ー横浜間の鉄道を通しました。これにより東海道が分断されたために橋が架けられました。

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 青木橋から、削られた丘の上に本覚寺が見えます。

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 青木橋を渡り、本覚寺に向かうために坂道を上っていきます。

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 横浜港が開港されると、本覚寺にはアメリカ領事館が置かれました。文久2年(1862年)に起こった生麦事件で負傷したイギリス人が逃げ込み、治療を受けたのがここ本覚寺でした。

 安政5年(1859年)に締結された日米修好通商条約で神奈川湊を開港することになりました。幕府は交通・流通の要所である神奈川湊を開港するのは様々な点で問題があると判断し、対岸にある当時寒村だった横浜を神奈川湊の一部と偽り、無理やり整備を行いました。神奈川宿の利便性を分かっていた各国の公使は異議を申し立て、神奈川宿の寺に領事館を開きました。これらの寺を巡ってきたことになります。

 ちなみに、横浜港は大型船を止めることができたり、広い倉庫を建てることができたりと、商人達には好評で、しだいに横浜居留地の取引が活発になり、横浜港が受け入れられるようになりました。

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 幕末の激動の歴史とはまるで関係なかったように静かな本覚寺です。

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 本覚寺門前から横浜駅方面を望みます。当時は海原が広がっていたのでしょう。

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 坂道を下る途中、右手には三宝寺が見えます。すごいところに建っています。

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 坂道を下り切り、青木橋脇の青木橋交差点に戻ります。東海道は少しだけ横浜駅方面に歩いて右折しますが、青木橋交差点から右に入って迂回します。

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 その先、車道は左へカーブしますが、並行して走る東横フラワー緑道に突き当たるので、左折して遊歩道を下ります。

 東横フラワー緑道は東急東横線廃線跡を整備したものです。東横線はこの地下を走っています。振り返ると、当時のトンネルを見ることができます。

 すぐに、東海道と交差するので、右折して街道に戻ります。

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 東海道に入ります。上り坂の道が続いています。

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 右手には大綱金刀比羅神社の赤い鳥居が立っています。平安末期の創建で、鳥居の前に広がる神奈川湊の漁師たちに崇められていました。

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 また、金川砂子では、鳥居の脇に一里塚が描かれています。神奈川の一里塚と呼ばれ、日本橋から数えて7里目の一里塚です。

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 これは何という桜でしょうか。葉と一緒に咲いています。

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 東海道の左手、南側に延びる坂道はすぐに海岸線があった跡です。この辺りの海はかつて袖ヶ浦と呼ばれていました。今は埋め立てが進み、マンションやビルが立ち並んでいて、当然、海は見えません。

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 台町の坂道を上ります。この辺りは神奈川の台と呼ばれていました。歌川広重の「東海道五十三次 神奈川 台の景」にも描かれています。街道脇の茶屋の裏側にはすぐ海が広がっていて、海の眺めを楽しむ茶屋がいくつも並んでいました。広重の浮世絵の中で茶屋が並ぶ上から3番目の店には「さくらや」という文字が記されていますが、さくらやは料亭田中家として現在も残っています。明治の初めには坂本龍馬の妻であるおりょうが働いていたと言われています。

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 田中屋脇から海方面を望みます。結構高低差があります。

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 上ってきた台町の坂道を振り返ってみます。昔の旅人も行き来した坂道です。

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 まだまだ、坂道を上ります。坂の途中で道は二手に分かれます。

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 分岐の角に神奈川台の関門跡碑が立っています。安政6年(1859年)横浜開港にともない、外国人への襲撃が多数発生したため、幕府は要所に関所や関門を設け警備体制を強化しました。神奈川台の関門はこの場所よりやや西側にあったようです。そういえば、鶴見橋の近くにも関門跡の石碑が立っていました。

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 やがて上り坂は下り坂に変わります。

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 その先で上台橋を渡ります。かつてこの辺りに神奈川宿の京側の口がありました。

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 橋の下は横浜駅に通じる道路が走っています。昭和5年(1930年)に切通しが開かれ道路ができた際に橋が架けられました。橋の欄干にはおなじみの波マークが描かれています。

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 橋を渡った右手には、小公園と歴史の道の説明板が立っています。小公園から台町方面を振り返ります。

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 その先で旧道は西口ランプ入口交差点に出るので、右折して環状1号に入ります。角には旧東海道の地図が示されていて、迷うことはありません。

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 環状1号を進みます。

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 勧行寺参道入口の桜は見頃です。

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 歩道には西区歴史街道シンボルマークのブロックが埋め込まれています。

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東海道(3)東神奈川~神奈川宿~保土谷宿~戸塚 その3へ続きます。

 

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