今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

今へ続く日光御成街道を歩くと

 

今へ続く日光御成街道

 

 今へ続く日光御成街道を辿ってみました。この街道は日光御成道とも呼ばれ、その名の通り、将軍家の日光社参の道でした。慶長5年(1600年)、徳川家康はこの道を通って上杉征伐に向かい、その時の小山評定が発端となって、天下人の地位を固めたことに繋がりました。徳川家にとってこの街道はとても縁起の良い道だったようです。

 将軍家の日光社参ルートは、江戸城大手門から神田橋門、筋違門を通って中山道に入り、さらに、本郷の追分から日光御成街道に入りました。岩槻城で1泊したのち、幸手宿手前の追分から日光街道に入り、2日目は古河城、3日目は宇都宮城で宿泊して、4日間をかけた道中でした。この道が日光御成街道として整備されたのは、家光の時代と言われ、五街道に準ずる位置付けとなりました。

 日光御成街道では五街道と同様に一里塚が整備されていました。都内の西ヶ原(2里)、埼玉県に入ると、膝子(8里)、相野原(10里)、下野田(11里)、下高野(12里)と、今もその跡がよく残っています。これらの中で、都内北区にある西ヶ原一里塚は、大正時代に道路の拡張工事で消滅の危機にさらされていましたが、渋沢栄一ら地元民の運動で保存されることになりました。大正時代からその価値が認められていたということですね。

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歩いた行程

 

日付   行程
2014-11-24 本郷⇒東川口
2014-12- 6 東川口⇒岩槻
2014-12-27 岩槻⇒幸手

 

 

日光御成街道三景

 

 往時の街道筋がそのまま残っているのかは分かりませんが、十二月田交差点付近から延々2km強も続く直線道路を歩きました。

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 名残の杉を所どころ見ることができました。杉戸町に入ると松並木の跡もありました。

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 そして、多くの人の思いで残った一里塚です。

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日光御成街道 完歩>