東海道(30)水口石橋~水口宿~石部宿~石部 その1
2024年10月13日
水口宿
新幹線を使って米原、草津経由で水口石橋駅に10:30過ぎに到着しました。5ヶ月ぶりの水口宿です。10月に入ってやっと猛暑も収まり、乾燥した空気に覆われるようになりました。とは言うものの今日の最高気温は25~26℃なので、この晴天だと30℃近くには上がりそうです。
今回は、今日明日で草津の追分まで歩き、ここで、東海道は完歩になります。追分から京三条大橋までは中山道歩きですでに歩いています。
10:40から歩き始めます。

駅から北へ少し歩くと、東海道に突き当たるので左へ入ります。

東海道は西へ向かって一直線に続いています。

右手には水口中部コミュニティセンターがあります。

一角には水口宿の説明と、歌川広重の東海道五十三次内水口の浮世絵が掲載されています。水口名物の干瓢を干している図柄ですね。広重の五十三次の一連の中で名物を描いた作品です。ユウガオの実から果肉を薄く剥いて、それを干して干瓢にするという工程を紹介しているとも言われています。

奥にあるのは、ひと・まち街道交流館ですが、こちらはリアル干瓢干しの写真があります。結構、長いのですね。

忍者飛び出し坊やです。これではあまり目立ちません。

東海道は、T字路を右折します。かつての東海道はここを曲がらず、直進の道が続いていました。しかし、水口城が築城され、城下が整備されると、この場所に「天王口」と呼ばれる木戸が置かれました。この先は武家地が広がっていたようです。これにより、東海道はこの先何度か曲がって城下を迂回する道に付け替えられました。

その先、突き当りを左折します。

天神町の曳山蔵が建っています。

車通りの多い道を横断して直進します。左へ進むと水口城へ出ます。

さらに、突き当りを左折します。

次のT字路を右折します。

角には小坂町の石標、水口石とその説明板、飛び出し坊や大井子バージョンがあります。

水口石と呼ばれるこの石は、これまで街道沿いでも見られた力石のようです。
大井子は近江高島郡の力持ちの女性で、ある時、村人との間に田んぼに入れる水で争いが起こりました。村人は意地悪をして大井子の田んぼに水が入らないようにしましたが、大井子はこっそり大石を運んで自分の田んぼに水を引き入れてしまいます。これを見た村人は数人がかりでこの大石をどかそうとしますが、びくともせず、村人は大井子の怪力に恐れおののき、水争いが収まったという逸話が残っています。
高島市の安閑神社には「大井子の水口石」と伝えられる石が祀られています。高島市はここ水口と場所が離れているのですが、一方で、「東海道五十三對」の水口宿として歌川国芳の錦絵には大井子が描かれています。これらの関係がどう繋がっているのかがよくわかりません。

水口石の角を曲がると左手には百間長屋跡があり説明板が立っています。

説明板によると、東海道の左手(南側)は水口城内になり、防御のために下級武士の住む棟割長屋が続いていました。長屋の出入り口は街道側にはなく、買い物には、与力窓と呼ばれる高窓から、ヒモの付いたザルを上げ下げして行っていたそうです。

右手には真徳寺の寺標が立っています。

真徳寺は少し奥まったところにありますが、その寺門は水口藩士の長屋門を移築したものです。改修はされていますが、長屋門を利用するとは珍しいですね。

その先には神社の杜が見えてきます。

五十鈴神社です。

五十鈴神社は五穀豊穣の神として伊勢皇大社の分霊を祀っています。江戸時代に入ると水口藩主から「神明宮」として厚い信仰を受けていました。五十鈴神社と改名されたのは明治に入ってからのことです。

東海道はT字路に突き当り、左へ曲がります。

T字路の角、右手には一里塚碑が立っています。林口の一里塚で、日本橋から数えて113里目の一里塚です。林口の一里塚は、かつてはこの地より南側にありましたが、水口城内の整備に伴い、東海道は北側を通るようになり、この場所へ移されました。

T字路を左折するとすぐのところに信号機のある交差点に出ます。東海道はここを右に曲がります。水口城下が整備される前の東海道は交差点の左右方向を通っていました。先ほど右折した天王口のT字路を直進するとここに出ます。

交差点を右折したあたりに西見附がありました。

街道脇には西見附跡の説明板が立っています。西見附は「京口」と呼ばれ、木戸や番所がありました。

街道を横切る川は「見附川」と呼ばれています。

見付川を渡ると、妙沾寺(みょうてんじ)があります。日蓮宗のお寺です。
