2022年4月2日
保土谷宿
まだまだ、保土谷宿は続きます。水屋脇本陣跡の先には格子窓の残る旅籠本金子屋が建っています。明治初期の建物だそうです。
国道1号を歩いていくと、やがて今井川が歩道に寄ってきます。信号を渡ると歩道と川の間に遊歩道が始まります。
遊歩道が始まるところに、復元された一里塚があります。保土ヶ谷の一里塚で、日本橋から数えて8里目の一里塚です。
その隣には土塁の上に矢来を設けた土居のモニュメントがあります。ここには上方見附がありました。
松並木に行燈風のモニュメントも立っています。
ピンクや白や赤い花桃の花も咲いています。
さらに、遊歩道が続きます。
岩崎ガード交差点に架かる歩道橋で国道の反対側に移ります。
さらに国道を進むと、道は二又に分かれます。東海道は右の道に入ります。
国道の喧騒から離れ、静かな住宅街に入ります。
国道から離れて8分ほど歩いて、突き当りを左折します。元町ガード交差点です。
今井川に架かる元町橋を渡った先で、旧東海道の標識に従って右の道に入ります。
ここから権太坂が始まります。
かなりきつい坂を上っていきます。国道16号横浜新道を越える橋も上り坂です。
まだまだ、上ります。光陵高校の角には権太坂の石碑と説明板が立っています。
さらに上ります。権田坂小学校脇の歩道には「権太坂の由来に2つの説 あなたはどちらを信じますか」という問いかけ説明板があります。
その1 「老人の返事説」 ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名をたずねたところ、自分の名前を聞かれたと思い込み、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になった。
その2 「本当は権左坂説」 昔、権左衛門という人が代官の指図によりひらいてきた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのころからか「権田坂」と呼ばれるようになった。
この辺りまでを1番坂、この先の境木までを2番坂と呼んでいたそうです。昔は道も整備されていなく、もっときつい坂道だったようです。
比較的勾配が緩やかになってきましたが、やっぱり上っています。
その先、境木中学校の前のT字路を右折します。
T字路手前の消防団のシャッタ―には境木立場の浮世絵が描かれています。
「五十三次名所図会 五 程ヶ谷 境木立場 鎌倉山遠望」
保土ヶ谷区と戸塚区の境界を進みます。
やがて、2番坂も終わり、境木に着きます。この地は高台にあり、かつては、西側には富士山が、東側には江戸湾を望むことができました。すぐの左手には境木立場跡の説明板が立っています。この辺りの茶屋で出す牡丹餅が名物だったそうです。
境木地蔵尊前交差点を渡り、地蔵尊へ向かいます。交差点を横断すると、歩道に小スペースができています。この中に、武相国境之木と記されたモニュメントが立っています。ここから相模国に入ります。
石段を上ったところに境木延命地蔵尊があります。
桜の花の散り始めで、お堂の前には花びらが敷き詰められていました。
再び、交差点を渡り、東海道に戻ります。東海道はこれまで歩いてきた道から左へ入ります。交差点の角には現代の道標が立っています。
境木地蔵尊前交差点からは下りに変わります。
この坂は焼餅坂と呼ばれ、坂の途中で焼餅を振舞う茶店がありました。
交差点から300mほど進むと下り坂も終わり、小さな橋を渡ります。
街道は再び上り坂に変わりますが、坂を上り切ったところに一里塚があります。品濃の一里塚で、両塚とも現存しています。神奈川県で両塚とも完全な形で残っているのは唯一ここだけで、県の指定史跡になっています。日本橋から数えて9里目の一里塚です。
東塚です。結構大きいです。このサイズは見たことがありません。
西塚です。見上げるほどです。
さらに東海道を進みます。東戸塚の高層マンションが見えてきます。