2022年5月3日
平塚宿
江戸見附のすぐ先には、ひときわ目を引くクスノキの大木が立っています。平塚の保全樹に指定されています。明治28年(1895年)、日清戦争の戦勝記念に配布された種から育った木だそうです。
脇本陣跡があります。
平塚宿でもこのような標柱や説明板が要所要所にあり、宿場町ウォーキングに役立ちます。
次は高札場跡です。
道の反対側には東組問屋場がありました。この付近は八幡新宿と呼ばれた加宿で、西仲町にある西組問屋場に加えて新たに問屋場が設けられ、東組問屋場と呼ばれました。
神奈川銀行あたりには本陣がありました。店舗の前には石碑文が立っています。14代将軍徳川家茂や明治天皇が小休止した場所です。
東海道はその先で右へ入ります。
分岐の右角にはなまこ壁風の消防団の建屋が建っています。壁には纏が描かれています。この地には西組問屋場がありました。
消防団のシャッタには歌川広重の「東海道五十三次之内 平塚 繩手道」が描かれています。東海道のこの先に見える高麗(こま)山の丸い容姿が強調されています。
その先で国道1号に突き当たるので左折します。正面には、高麗山が迫ってきます。
すぐに、先ほど別れた通りと合流しますが、国道を直進します。
合流点の交差点を渡った左角には京方見附跡の碑があります。ここまでが平塚宿でした。説明板によると京方見附跡は正確には分かっていないそうですが、言い伝えや歴史資料からこの辺りと想定されています。また、広重の浮世絵もこの辺りから描かれたものとみられています。確かに、くの字に曲がった先の橋の向こうに高麗山が見える構図はよく似ています。
ここから、大磯町に入ります。
花水橋で花水川を渡ります。
橋から高麗山が間近に見えます。高句麗からの亡命者がこの地に住んだことが名前の由来になっているようです。
さらに、上流の向こうには丹沢の山並みや大山も見えます。
高来神社入口交差点を右に入って、神社へ寄り道をします。
高麗山を背に鳥居が立っています。
もともとは高麗山の頂に上宮があり、高麗権現社と言われていました。高麗寺が別当となっていて、東照権現を祀っていましたが、明治維新の神仏分離で高麗寺は廃寺になりました。明治30年(1897年)に高来神社と名前が変わりました。
東海道に戻りすぐのところに虚空蔵堂があります。かつては東照権現を祀った高麗寺の寺領との境界にあり、寺領傍示杭が立っていました。大名行列もここで馬から降りて、高麗寺に最敬礼をして静かに寺領を通過したと言われています。
大磯町の説明板には往時のイラストが描かれていて、理解が深まります。とても良いアイディアです。
化粧坂(けわいざか)交差点で右の旧道に入ります。
化粧という言葉の由来は諸説ありますが、近くに、この地では有名な虎御前が化粧をした井戸があることから名前が付いたとも言われています。虎御前は曽我物語に出てくる曽我兄弟の兄曽我十郎祐成の妾で、実在の人物だったようです。
松ばかりではありませんが、なかなか雰囲気のある並木道です。緩やかな上り坂になります。
右手は一里塚跡です。化粧坂の一里塚で、江戸から数えて16里目の一里塚です。説明板には分かりやすいイラストが描かれています。海側には榎、山側にはせんだんが植えてありました。
さらに歌川広重の浮世絵の説明板が立っています。「東海道五十三次之内 大磯 虎が雨」という題で雨模様を描いた絵ですが、仇討ちで果てた曾我十郎の命日である5月28日に降る雨を、虎御前が流した涙と重ねて「虎が雨」という故事にちなんだものと言われています。
坂道の上で、東海道本線の線路の下をくぐります。竹縄架道橋というプレートが掛けられています。
線路をくぐると、緩やかな下り坂に変わります。名残の松でしょうか。道の上まで覆っています。
大磯宿
その先には江戸見附がありました。先ほどの広重の絵「虎が雨」にも土居や傍示杭が描かれていて、江戸見附が描かれています。
化粧坂交差点から並木道を歩くこと15分で、再び国道1号と合流します。三沢橋東側交差点です。
右手には、北組問屋場がありました。
すぐのところに大磯宿に3つあった本陣の一つ、小島本陣がありました。
中南信用金庫の敷地には尾上本陣がありました。シャッタには広重の大磯宿虎が雨が描かれています。
店舗の角には本陣跡と大磯小学校発祥之地の石碑が立っています。