2022年4月9日
戸塚宿
良い天気です。今日は20℃くらいに上がる予報です。暑さでだんだん街道歩きも辛くなりますね。1週間ぶりの戸塚駅西口からバスセンター側に出ます。8:50に歩き始めます。
バスセンターの橋上通路を通って、そのまま東海道を跨ぐ歩道橋を渡り清源院へ向かいます。歩道橋から東側を見ると、前回通った戸塚大踏切デッキが右手に、開かずの踏切を避けた国道1号のアンダーパスが左手に見えます。
清源院入口交差点から西側の路地を入ると、右手の坂道の上に清源院があります。
お堂は新しくなっていますが、徳川家康の側室だったお万の方が家康を弔うために建てた寺です。
敷地には芭蕉が奥の細道で残した一文を記した句碑が立っています。
世の人の 見つけぬ花や 軒の栗
奥州須賀川で詠まれた句だそうです。
交差点に戻り、東海道を西に向かって歩きます。すぐのバスセンター交差点を渡った先には内田本陣の説明板が立っています。戸塚宿に2軒あったうちの一つです。
その先には脇本陣がありました。
右手にはもう一つの本陣、澤邊本陣跡があります。東海道整備の際に、当主宗三は宿場開設に尽力したと言われています。
また、明治天皇の東下の際に行在所として使われました。
消防署の脇の坂道を上ると、海蔵院に入ることができます。海蔵院は貞治2年(1363年)に創建された臨済宗のお寺です。
お寺の正面に回ると山門があります。山門の龍の彫刻は左甚五郎の作と伝えられています。
山門前を下り、再び国道1号に戻ります。
さらに、八坂神社前交差点手前の右手には八坂神社があります。
八坂神社は戸塚宿の鎮守で、元亀3年(1572年)に牛頭天王社より勧請されたのが始まりです。
夏祭りに行う「お札まき」と呼ばれる踊りが有名で横浜市の無形民俗文化財に指定されています。男子十数人が姉さんかぶりに女装して、渋うちわを持って輪になって踊ります。踊り終わると手に持っていた神札をうちわでまき散らし、人々は競ってお札を拾い自宅に持ち帰ります。古くから伝わる厄霊除けの行事です。
傍らには明治天皇東幸史跡の碑が立っています。
神社の角は八坂神社前交差点です。
交差点を横断した右手には鎌倉道道標が立っています。どうやら浦賀へ通じる道の起点になっていたようです。
その先には、戸塚の総鎮守、冨塚八幡宮があります。
拝殿へは急な階段が続いています。
階段の脇には芭蕉句碑が立っています。
鎌倉を いきて出てけむ はつ松魚
鎌倉で獲れ、新鮮なまま運ばれる初鰹を詠んだ句です。鎌倉からここ戸塚で東海道に入り江戸へ向かったので、この句碑が立てられたようです。
階段を上ると拝殿があります。前九年の役平定のために源頼義、義家親子が奥州へ向かう際にこの地で応神天皇、富属彦命のご加護を願いました。それにより戦功をおさめたことに感謝して、延久4年(1072年)に冨塚八幡宮は創建されました。神社の後方には富属彦命のものと伝わる古墳があります。この古墳が冨塚と呼ばれ、それが戸塚の語源になったと言われています。
冨塚八幡宮の前の歩道を渡り、国道の左側の歩道を歩きます。
その先、ローソンの駐車場と歩道との間には上方見附跡の説明板が立っています。京に向かって左には松、右には楓の木が植えられていました。
ローソンあたりから上り坂に変わります。
坂を上り始めた道の反対側には、8基の庚申塔が並んでいます。大坂下の庚申塔と呼ばれています。
さらに大坂を上っていきます。
大坂台バス停の手前の生け垣には大坂の説明板が立っています。
大坂上交差点の先で戸塚道路と合流します。街道は左側の歩道を直進します。
戸塚道路と合流します。
戸塚道路に入ると、大坂松並木の説明板があります。かつて、天気の良い日はここから富士山を眺めることができ、多くの浮世絵にも描かれていました。
新たな道路に架かる歩道が大きく左へ迂回して突き出しています。
とても眺めの良い場所です。
西横浜国際病院前バス停の脇には、お軽勘平戸塚山中動行の碑が立っています。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」にちなむ場所です。