今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(5)京王永山から北府中 その2

 

2023年3月4日

 

関戸

 

 沓切坂を下り、熊野神社の霞ノ関南木戸から観音寺の北木戸を抜けます。この辺りの歩道には緑色の柵と「歴史と文化の散歩道」のプレートが架かっています。歴史と文化の散歩道は都内に制定された歴史散歩道で、この道は永山駅から府中駅までのほぼ旧鎌倉街道沿いが充てられています。

 

 乞田川に沿った鎌倉街道を進みます。車の通りは結構あります。

 

 観音寺から10分ほど歩くと、関戸古戦場跡に着きます。お地蔵様の前に標柱が立っています。元弘3年(1333年)、分倍河原の戦いで、勝利した新田義貞軍は、ここ霞ノ関でも北条泰家率いる幕府軍を破りました。勢いに乗った新田軍は鎌倉に攻め入り、関戸の戦いから6日目に鎌倉幕府は滅亡しました。

 

 大栗川を渡ります。

 

 大栗川の上流、聖蹟桜ヶ丘方面を望みます。水はきれいです。

 

 その先の新大栗橋交差点で現代の鎌倉街道に入ります。

 

 この先の多摩川に架かる関戸橋の右側を通るため、横断歩道橋で右側へ移ります。

 

 せっかく右側の歩道に移って関戸橋までやってきましたが、関戸橋の下流橋は架け替え工事中で、残念ながら歩行者も通れません。上流側の仮橋を渡るために、一旦、土手の右手から河原に降りて、橋の反対側に移動します。

 

 関戸橋の東側、下流方面を望みます。鎌倉街道の旧道は関戸橋の手前から東側の方に反れて多摩川を渡っていました。橋のすぐ東側と、さらに、対岸の郵便局が見えるあたりの二手に分かれていました。どのようにして多摩川を渡っていたのでしょうかね。

 

 橋の下をくぐります。

 

 河原から土手に上がり、橋の上流側に向かいます。

 

 仮橋では幅の広い歩道を通ることができます。

 

 白鷺がのんびりと日向ぼっこをしています。

 

 上流方面の眺めです。京王線の鉄橋が見えます。

 

 関戸橋を渡り府中市に入ります。関戸橋北交差点を右に曲がり、府中市側の渡し?のあったあたりから対岸を望みます。もちろん工事中です。

 

 その先の街道は途切れているので、現代の鎌倉街道を進みます。京王線中河原駅の下をくぐります。

 

 12時を過ぎていたので駅周辺で昼食を取ります。

 1時間ほど休憩した後、中河原北交差点で右斜め前、法音寺の右脇に入ります。

 

 道幅が狭くなり、住宅街の中を進みます。中河原駅北交差点から右斜めに入ったこの道は都道18号で、現代の鎌倉街道がそのまま続いています。街灯には「鎌倉街道商店会」の表示が。

 

 中河原駅北交差点から歩くこと10分弱で、正面に中央高速道の高架が見えてきます。

 

 中央高速道の手前の右手には新田川分梅公園が広がっています。入口には新田川緑道の標識が立っています。新田川は南武線西府駅付近で府中用水から分水され、多摩川まで流れています。

 

 公園内には分倍河原古戦場の碑が立っています。元弘3年(1333年)、小手指ヶ原、久米川の戦いで敗れた幕府軍はここ分倍で陣を敷き、新田軍を迎撃しました。一旦堀兼まで退いた新田軍には相模の豪族が加わり、再び、分倍河原へ攻め入って幕府軍を破りました。

 

 中央高速道の下をくぐります。

 

 中央高速道をくぐって5分ほどで分梅駐在所前交差点に着きます。直進方向が旧鎌倉街道で右へ別れるのが現代の鎌倉街道です。

 

 分岐の三角地帯が小公園になっています。

 

 一角には分梅の地名説明板が立っています。この辺りは多摩川の急流の作る浸食崖の台地の縁(ハケ)にあたり、この先の高台一帯が分梅の中心地でしたが、多摩川の流れが変わり、台地下の低地にも民家が広がるようになりました。分倍河原もそのなごりと言われています。

 

 ここで鎌倉街道から反れて分倍河原駅ロータリーにある新田義貞像を見学しに行きます。分梅駐在所前交差点から現代の鎌倉街道に沿って右へ入ります。

 すぐの左手には石橋供養塔が立っています。石橋供養塔とは、川に橋を架けた際に通行の安全を祈念して立てたものです。かつてはここに川が流れていて、橋が架かっていたのでしょうか。慶應四戊辰年と記されています。

 

 

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