今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(23)新安城~知立宿~鳴海宿~鳴海 その4

 

2023年10月21日

 

阿野の一里塚

 

 境川を渡って尾張国に入ると、国道1号に合流します。単調な郊外の国道を15分弱歩き、左の旧道に入ります。その先、豊明の住宅街の中に阿野の一里塚があります。この一里塚は両塚とも現存していて、北塚の前には「国指定史跡 阿野一里塚」の標柱が立ち、

 

 塚の上?にも標石と説明板が立っています。

 

 こちらは南塚です。

 

 塚の上には森市雪の句碑があります。

 春風や 坂をのぼりに 馬の鈴

 「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる」といった意味であることを説明板では記されています。

 

 その坂道を上っていきます。

 

 名鉄前後駅付近を過ぎます。

 

 右手には寂応庵跡の石碑が立っています。幕末に明道尼がここに庵を建てて、東海道を行く旅人に休憩所の提供と、茶の接待を行いました。

 

 新栄町交差点は直進しますが、並行して近くを走る国道1号には飲食店が並んでいるので、右折して昼食を摂ることにします。

 

 30分ほど昼食兼休憩を取った後で、新栄町交差点に戻り、東海道に入ります。すぐのところで国道1号に合流します。

 

 国道を歩くと競馬場前交差点を通過します。近くには中京競馬場があり、蹄鉄と馬のモニュメントが迎えてくれます。

 

 交差点の西側で名鉄線のガードをくぐります。脇には中京競馬場前駅があります。

 

 次の信号のある交差点を左折して寄り道をします。

 

 交差点を左折するとすぐのところに桶狭間古戦場跡があります。

 永禄3年(1560年)、今川義元織田信長の急襲にあって戦死した場所で、歴史的に見ても織田信長の存在感が高まった出来事と言えます。

 教科書では、桶狭間は狭隘な谷間だったように記憶していますが。

 

 ここには今川義元以下今川の武将が戦死したと言われる場所に、七石表と呼ばれる石碑が建てられています。

 

 今川義元の墓とされています。

 

 東海道に戻ると、左の旧道に入ります。

 

 すぐに国道1号に戻ります。ここから名古屋市緑区に入ります。

 

 その先、大将ヶ根交差点から右へ入ります。

 

 間の宿、有松へ向かいます。いよいよです。

 

 右手には鈴木朖(あきら)の歌碑が立っています。

 たちならぶ 花のにしきと 家ごとに かけ渡したる くくり染かな

 鈴木朖は江戸末期の国学者でした。

 

 道は二手に分かれ、東海道は橋を渡って左の道に入ります。

 

 有松の町並みが始まります。

 有松は知立宿と鳴海宿の間に設けられた間の宿でした。有松絞が始まったのは江戸時代初期で、尾張藩は特産品として保護にあたりました。東海道沿いにあったので、有松絞の名前は全国に広まり、名産品として繁栄しました。

 有松の町並みは重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。名古屋駅からさほど離れていない場所で、この様な町並みが残っているのは興味深いものがあります。

 

 有松山車会館では、有松にある山車三輌を毎年交代で展示しています。これらの山車は、毎年10月に行われる秋祭りの山車曳きで見ることができます。

 

 虫籠窓のある服部幸平家住宅とその蔵です。西隣の絞問屋 服部家から分家しました。

 

 二つ並んだなまこ壁の蔵は、手前が分家の服部幸平家の蔵で、奥が本家井桁屋 服部家の蔵になります。その奥が井桁屋の主屋になります。

 

 こちらが井桁屋服部家住宅です。黒漆喰の外壁にうだつがあげられていて、重厚な雰囲気です。

 

 各建屋には、絞りで作った「ありまつ」の暖簾を下げています。

 

 中濱家住宅です。国の登録文化財に指定されています。

 

 有松駅へ続いている通りとの交差点を横断したすぐのビルの2階の壁に鍾馗様が見えます。スポットライトが当たるようになっています。

 

 こちらは唐子車の山車庫があります。唐子車の山車は天保年間(1830~1844年)に造られたものです。

 

 中舛竹田荘は有松絞開祖の竹田庄九郎ゆかり建屋で、江戸時代のものですが、老朽化に伴い、存続が危ぶまれていました。しかし、「まちなみファンド募金」を利用して江戸時代の姿が蘇りました。

 

 こちらは竹田家住宅です。

 

 

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