今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(24)鳴海~鳴海宿~宮宿・七里の渡し その1

 

2023年10月22日

 

鳴海宿

 

 知立駅から名鉄に乗って、8:20過ぎに鳴海駅に着きました。今日は友人のSさんと歩くため、8:30くらいに改札口で待ち合わせをしています。天気は晴れ、朝のうちは少し肌寒いですが、今日も日中は20℃くらいになるようです。8:40に歩き始めます。

 

 扇川を渡ってすぐに本町交差点に到着し、左折して東海道に入ります。

 

 次の信号のあるT字路の交差点、作町交差点を右折します。

 本町交差点とこの作町交差点の間には鳴海宿本陣跡碑があったはずなのですが、見逃してしまいました。後から調べると、江戸側から歩くと建物の影に隠れたところにあったようです。予習は必要ですね。

 

 旧街道の道幅ではないかと思わせる住宅街を進みます。

 

 作町交差点から10分くらい歩くと、右手に丹下町の常夜燈があります。寛政4年(1792年)に建立され、東の平部の常夜燈と対をなしています。このあたりに鳴海宿の京側の口がありました。

 

 その先、右手の丘陵部に千鳥塚があるので、立ち寄ることにします。

 

 急な斜面を上ると、千句塚公園があります。公園入口のプレートには芭蕉の句が記されています。千鳥塚は公園の上にあるようで、さらに、脇の道を上っていきます。

 

 千鳥塚は大きな木の下にあります。

 

 この石碑は、千鳥の句を立句として千句達成した記念に、貞享4年(1687年)に建てられました。「千鳥塚 武城江東散人 芭蕉桃青」と記され、その文字は芭蕉の自筆だそうです。「芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚で、俳文学史上稀有の遺跡といってよい」と説明板に書かれています。

  星崎の 闇よ見よとや 啼く千鳥

 星崎は鳴海にある地名で、星から闇夜に啼く千鳥を想像させたのかもしれません。鳴海は海辺にあったようです。

 

 千句塚公園からの眺めです。かなり高いところまで上って来たものです。

 

 街道に戻り、三王山交差点は、左斜め方向に向きを変えつつ直進します。

 

 その先で天白川に架かる天白橋を渡ります。

 

 天白川です。

 

 リバーシブルレーンですね。あまり見かけません。

 

 道路標識に弥次さん喜多さんが。

 

 病院脇の歩道には「東海道 知多郡道 この先五十米南へ」と記された道標が立っています。知多郡道とは、この先の十字路を左へ入った道でしょうか。

 

 その隣には東海道分間延絵図が掲示されています。右から天白川を渡って、両側には松並木でしょうか、松が並んでいます。現在地の先で右へ大きくカーブして、その先には一里塚が描かれています。

 

 東海道分間延絵図の通り、一里塚がありますが、東塚だけ残っています。

 

 笠寺の一里塚で、日本橋から数えて88里目の一里塚です。

 

 立派な木ですね。エノキでしょうか。

 

 笠寺の町並みです。

 

 やがて、笠覆寺(笠寺)の仁王門の前に出ます。

 

 その先の二又は右へ入ります。

 

 東海道はすぐの二又を、今度は左へ進みますが、ここで笠覆寺に立ち寄ります。

 

 西門から入ります。

 

 笠覆寺天平5年(733年)、善光という僧が呼続の浜に打ち上げられた流木で十一面観音像を彫って、それを祀るために小松寺を建てたのが始まりと言われています。

 それから時は経ち、お寺のお堂は朽ちて、観音像は雨風に晒されていました。ある時、ある女性が雨で濡れた観音様に自分の笠を被せてあげたのを、旅の途中の藤原兼平がそれを見かけ、兼平はその娘を見初めて、妻にしました。その娘は玉照姫と名乗るようになりました。兼平と玉照姫は出会いのお礼にと、観音様を祀るお寺を建てました。ここから笠覆寺と呼ぶようになりました。

 

 境内にある多宝塔です。正保年間(1644~1647年)に建立されたと言われています。

 

 多宝塔の前には人質交換之地の石碑が立っています。徳川家康が幼少(竹千代)の頃、人質として今川へ送られる際、織田信秀(信長の父)に誘拐されて、織田家の人質として扱われました。

 これに対して今川は、織田方の安祥城を攻めて信長の兄である信広を生け捕りにしました。そして、天文18年(1549年)にここ笠覆寺で人質の交換が行われ、竹千代は駿府今川義元へ送られました。

 

 

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