今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(23)新安城~知立宿~鳴海宿~鳴海 その5

 

2023年10月21日

 

有松

 

 重要伝統的建造物群保存地区の町並みを眺めつつ、かつての絞問屋の竹田家住宅までやってきました。庇の屋根の上には明治期のガス灯が残っています。これは、財力があったからなのでしょうか。

 

 この辺りからの眺めは、広重の「東海道五十三次内 鳴海」の構図に雰囲気的に似ていますかね。

 

 有松の町並みもそろそろ終わりに近づいてきています。左手には岡家住宅があり、ここは中を見学させてもらうことにします。外壁が白漆喰で玄関脇のなまこ壁がポイントです。

 

 ボランティアの方に見学コースを一通り案内いただきました。驚いたのは、奥の部屋の天井に天窓があるのと、防火のために炊事場の柱や梁まで漆喰が塗り込まれている念の入りようです。こういうのを塗籠造りと言うようです。

 

 岡家住宅は江戸末期頃の造りで、丸屋丈助が絞問屋を営んでいました。この絵は幕末から明治初期の頃の丸屋の店舗の様子を描いたものですが、各問屋が自分たちの店の絵を描かせ、広告のチラシとして配っていたものだそうです。

 その後、昭和10年(1935年)に岡家が買取、問屋を引き継ぎました。

 

 その先は小塚家住宅です。こちらも、うだつの上がった重厚な建屋で、有松の絞問屋の形態をよく現していると言われています。

 

 800mほど続いた有松の町並みも終わりに近づき、天満宮入口の常夜燈の脇には「東海道五十三次 二代目松」の石碑があります。説明板とかはありませんが、かつてこの場所に東海道開通以来の松が立っていました。残念ながら、昭和55年(1980年)に枯れてしまい、初代の松から取った種で2代目を育てたそうです。

 

 二代目松の隣には梅屋鶴寿の句碑が立っています。

 あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ

 梅屋鶴寿は幕末の狂言師でした。神田佐久間町の生まれですが、秣(まぐさ)を商い、尾張家の御用を務めていました。

 

 有松の町並みを抜けると名古屋第2環状道路の脇に一里塚が復元されています。有松の一里塚で、日本橋から数えて87里目の一里塚です。こちらは北塚です。

 

 こちらは南塚になります。

 

 高速道路の下をくぐると、名鉄線の踏切を渡ります。

 

 手越川に架かる鎌研橋を渡ります。

 

 一里塚から10分ほど歩くと、右手には、街道の名残なのか1本の大きな松が立っています。正面からだと写真が暗くなってしまうので、振り返って見てみました。

 

 右手の高台の上にあるのは神明社です。急な階段には「この神社は 元伊勢伝承の神社です」と掲げられています。ちょっと寄り道をしてみます。

 

 階段を上ると鳥居があり、

 

 奥には社殿が建っています。創建は不明で、現在は、近くにある諏訪社に合祀され、飛び地境内社になっています。

 

 元伊勢伝承の由緒書きがあります。天照大神が各地を巡られ、伊勢にお鎮まりになられましたが、この神明社に一時的に鎮座されたという言い伝えが残っているそうです。このため、元伊勢と考えられています。

 

 手水鉢には「宿内安全」の文字が刻まれています。鳴海宿を指すのでしょうか。

 

 

鳴海宿

 

 神明社から5分ほど歩き、平部北交差点を渡った角に、常夜燈が立っています。文化3年(1806年)に建立されたもので、宿内安全と防火厄除けの願いが込められています。このあたりに鳴海宿の東の入り口がありました。

 

 金剛寺です。宝暦10年(1760年)に創建され、行者菩薩像が本尊になっています。このため元は行者堂と呼ばれていました。町中にあるため、江戸時代には寺子屋が開かれていました。

 

 松の木と旅人のレリーフの石碑があります。

 

 扇川を渡ります。アオサギでしょうか。

 

 街道脇の少し高い段の上に瑞泉寺があります。瑞泉寺の前身、瑞松寺は応永3年(1396年)に創建されました。しかし、その後、戦火に合って焼失してしまい、文亀元年(1503年)にこの場所に移って、瑞泉寺と名前が変わりました。そして、宝暦年間(1751~1759年)に伽藍は再興され、現在の山門は宝暦6年(1756年)に、宇治の黄檗宗万福寺の総門を模して建立されました。中国風の門で、県の有形文化財になっています。

 

 鳴海宿の町並みを進みます。

 

 その先で、桝形跡を通ります。

 

 すぐのところにある本町交差点に到着しました。本日の街道歩きはここまでとします。左折すると名鉄線の鳴海駅に行けますが、ここを右折して、鳴海城址へ寄り道をします。

 

 本町交差点から坂道を上っていくと、坂の途中に高札場が復元されています。

 

 さらに、少しだけ上ると天神社があります。

 

 朱鳥の時代(686年)に成海神社がこの地に創建されたと言われています。室町時代の応永3年(1396年)に安原宗範が鳴海の領主として、このあたり一帯に城を築城し、成海神社は現在の北側600mのところに移されました。この場所には天神社が祀られ、成海神社例祭の御旅所になりました。

 

 傍らには鳴海城址の碑が立っています。鳴海城は根古屋城とも呼ばれ、応永年間に築城された後、桶狭間の戦いで今川方の岡部元信がこの城に配されました。その後、織田方の佐久間信盛らが城主になりましたが、天正18年(1590年)に廃城となりました。

 

 天神社から坂道を下り、本町交差点を直進して鳴海駅に着きました。時刻は15:10で、本日は6時間30分の行程でした。

 知立へ戻る前に、成海駅付近でお茶する場所を探したのですが、見つからなかったので、久しぶりに名古屋へ行ってみることにしました。名鉄名古屋駅を降りたところで、うまいぐあいに、大あんまきの藤田屋を見つけたので、チーズと抹茶を1本ずつお土産で買うことにしました。明日はあんまき2本を背負って街道歩きに臨みます。

 

 

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