今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

佐屋街道(1)熱田追分~烏森

 

2023年10月22日

 

熱田追分

 

 佐屋湊の三里の渡しへ向かうため、これから佐屋街道を歩きます。七里の渡しから、先ほど左折した熱田追分に戻り、そのまま直進します。ここからは美濃街道と佐屋街道の相乗り区間になっていますが、佐屋街道は先にある金山駅付近で美濃街道と別れて西へ進みます。

 美濃街道は中山道を歩いていた際、垂井宿手前にある追分で合流しています。宮宿と垂井宿の間には、名古屋、清州、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の宿場町がありました。

 熱田追分から美濃街道を直進すると、正面の熱田神宮の森の中に一の鳥居が見えます。しかし、手前に国道1号が横たわり、例によって迂回して先の街道に入ることになります。

 

 左手すぐのところにある熱田神宮南交差点の歩道橋を渡ります。下の写真の左手が国道1号四日市方面、右手の広い道が美濃街道方面、国道19号と22号になります。

 

 迂回して美濃街道に戻ります。すぐの正面は熱田神宮で、美濃街道は鳥居の前を左折して、先ほどの国道19号に出ます。

 熱田神宮に向けて車が渋滞していますね。ちなみに、写真左脇は七里の渡しの時の鐘があった蔵福寺です。

 

 直進して熱田神宮に参拝していきます。さすが日曜日の熱田神宮、境内はかなりの人出で、中でも拝殿前には長い列が出来ています。このため写真は遠慮しておきましょう。

 

 お参りを済ませ、ショートカットして西門の鳥居から美濃街道に出ます。

 

 西門前の歩道橋を渡り、国道19号の左側の歩道を北へ向かってしばらく歩くと、源頼朝の誕生地があります。「右大将頼朝公誕生舊地」と記された石碑が立っています。この地には熱田大宮司を務めていた藤原氏の別邸がありました。頼朝の母、由良御前は藤原氏の出身で、実家に帰って頼朝を生んだと言われています。

 その後、享禄2年(1529年)に、別邸跡に誓願寺が建てられました。

 

 誓願寺尾張名所図会にも描かれていて、境内の小池は頼朝公産湯の池と言われていたそうです。

 

 誓願寺の隣、福重寺の前を通ります。曹洞宗のお寺です。

 

 その先は金刀比羅社です。尾張名所図会にも記されています。

 

 正午を過ぎたので、我々は旗屋町交差点を過ぎたあたりから食事の場所を探し始めましたが、国道沿いの街中にも関わらず意外とありません。やっと出てきた創作家庭料理の店に入りラーメンを頂きました。

 30分ほど休憩して、歩き始めるとすぐの左手には熱田神宮公園の緑地が現れます。熱田神宮公園は野球場や競技場のある運動公園なのですが、国道19号の脇にある森は断夫山古墳です。

 

 断夫山古墳は全長151mで、愛知県最大の前方後円墳です。5世紀末から6世紀初頭のものと考えられています。日本武尊にまつわる伝説が残っていて、日本武尊の妻であった宮簀媛命(みやずひめのみこと)の墓とされていました。このため、長い間、熱田神宮に保護されてきました。一方、日本武尊の墓はこの近くの白鳥古墳と伝えられています。

 園内のイチョウが黄色くなり始めていますね。

 

 片側4車線の国道はまだまだ続きます。

 

 左手、雲心寺は浄土宗の寺院です。名古屋三大仏に数えられる阿弥陀如来像を本尊としています。

 

 国道19号の歩道を延々歩き、金山新橋南交差点に到着しました。途中昼食タイムも含めて1時間ほどかかったことになります。

 

 ここは美濃街道と佐屋街道の追分で、佐屋街道は左へ入ります。角には文政4年(1821年)に建立された道標があります。

 (東)右 なこや 木曽 海道

 (西)右 宮海道 ひだり なこや道

 (南)左 さや海道 津しま道

と記されています。

 佐屋街道は、宮宿からの七里の渡しの危険を避けるため、佐屋湊まで陸路6里を歩き、川舟で3里ほど渡って桑名まで下るルートでした。寛永11年(1634年)に家光が上洛する際に、尾張藩が整備した街道ですが、東海道のう回路として盛んに利用されるようになりました。当初は尾張藩の管理下にありましたが、後に道中奉行の支配下に変わり、五街道並みの位置づけになりました。

 

 佐屋街道に入ります。しばらく県道115号がトレースしています。

 

 佐屋街道に入って5分ほど歩くと、堀川に架かる尾頭橋(おとうはし)を渡ります。

 橋の欄干には尾頭橋佐屋街道の説明板が架けられています。堀川は慶長5年(1600年)頃切削され、当初は現在の尾頭橋より南側で、舟で渡っていました。その後、佐屋街道脇往還として整備されると、現在の場所に橋が架けられ、尾頭橋と呼ばれるようになりました。一方で新たな街道に架かる橋として、新橋とも呼ばれていました。

 

 堀川です。

 

 名古屋高速4号線をくぐった尾頭橋交差点の右角には、和菓子の不朽園がありますが、その外壁には「佐屋街道縁起と尾頭橋地名由来」の説明板と「佐屋街道 尾頭橋」と記された石碑が立っています。

 

 さらに、5分ほど歩くと尾頭の地名由来の詳細が書かれています。ここから南西に300~400mにある願興寺を建立した道場法師の生誕にまつわる故事から山号を尾頭山とした謂れがあります。その故事については「霊蛇が首筋にまきつき、蛇の尾と頭が並んで後ろに倒れていた」と記されています。その後、願興寺は一時廃寺になりましたが、源為朝の次男、次郎義次によって再興されました。後に義次がこの地を治めることになり尾頭次郎義次と名乗って城を構えました。後の時代に尾頭城は廃城になりますが、尾頭の地名は残りました。尾頭は蛇の尾と頭ということだったのですね。

 

 その先で東海道新幹線の下をくぐります。

 

 右手には唯然寺の山門が立っています。

 

 唯然寺の柵の中に「津島街道 一里塚」の碑が立っています。津島街道はこの先の津島神社までの街道で、佐屋街道とは途中の埋田の追分までは同じ道となります。

 五女子(ごにょし)の一里塚で、東海道の伝馬町の一里塚(89里)の次の一里塚と見て、日本橋から数えて90里目の一里塚です。

 五女子とは珍しい名前です。昔、片端の地を治めていた領主に7人の娘がいて、それぞれが嫁いでいった村を、一女子から七女子まで名付けたと言われています。今でも、二女子と四女子と五女子の三つの地名が残っています。

 

 その先、左手の金印わさびの工場の敷地には西洋館が建っていました。大正時代に町医者の診療所として建てられ、その後、熊谷組の事務所や教会に変わり、昭和15年(1940年)に金印が譲り受け、創業者の住居兼事務所として使われるようになりました。太平洋戦争の戦火も潜り抜けましたが、令和2年(2020年)に老朽化のため取り壊しになりました。その瀟洒な姿は説明板に残っています。

 

 中川福祉会館の前を通ります。

 

 福祉会館の前には佐屋街道の説明板が立っています。佐屋路分間延絵図のこの辺りの部分が載せられていますが、若干分かりづらいです。

 

 石碑も立っています。

 

 その先のファミマの駐車場の前に「明治天皇御駐蹕之所」の碑が立っています。明治元年(1868年)に京都へ向かう際に、この地で休憩されました。

 

 長良橋中川運河を渡ります。

 

 満々の水を湛えています。

 

 歩道にあるのは佐屋街道弥次さん喜多さんでしょうか?

 

 松葉町付近を歩きます。長良橋から1km強の直線道路を歩いてきました。

 

 あおなみ線、JR関西線、近鉄名古屋線の高架が見えてきました。

 

 そして、佐屋街道に面している近鉄烏森駅に到着しました。ここで今日の街道歩きを終わりにします。時刻は14:00で、本日は5時間20分の行程でした。

 駅名のプレートを見て初めて「かすもり」と読むことを知った我々は、近鉄で名古屋へ向かい、新幹線で帰路につきました。

 

 

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