2023年11月11日
烏森
名古屋駅で近鉄に乗り換えて8:30に烏森駅に到着しました。名古屋から各駅で3駅目という便利なところにあります。天気は晴れで、暑くもなく寒くもなく、街道歩き日和です。佐屋街道に面している西口から8:35に歩き始めます。
三里の渡しまでは、熱田の追分から佐屋街道を通って6里ほどの道のりです。今日中には渡場跡に到達し、明日は桑名宿の七里の渡しから東海道に戻ります。
烏森あたりはかつて松並木が続いていましたが、今はその姿は見られなくなり、往時を偲んで松が街道の両脇に植えられています。
すぐの右手奥に見える鳥居は八幡社です。
尾張造りの拝殿は特徴的で、舞台のように風通しの良い?妻入りの構造になっています。
八幡社には、柳街道との追分に建っていた秋葉山常夜燈の道標が移設されています。社殿の脇にあり、正面は「正一位秋葉山大権現」、左面には「左なごや道」と刻まれています。柳街道は、佐屋街道をこの先300mほど西へ行き、郵便局の角から右に入る道になります。
真っ直ぐな道が続きます。
保育園の生け垣には「なかよし」と書かれた双体道祖神?が。
岩塚町四丁目交差点が見えてきました。
岩塚町四丁目交差点の先、歩道が途切れる手前あたりに、一里塚のイラストが描かれたブロックが埋め込まれています。場所は特定できていないようですが、このあたりに岩塚の一里塚がありました。日本橋から数えて91里目の一里塚です。
一里塚ブロックは岩塚石橋交差点の手前にあります。
岩塚宿
岩塚石橋交差点あたりから岩塚宿に入ります。街道の町並みには、昔の面影は残っていません。
佐屋街道が開設された時は、万場村とその北側にある砂子村が宿場として割り当てられましたが、その後、砂子村から岩塚村へ差し替えられました。庄内川を隔てて岩塚宿と万場宿が設置され、宿場の業務は月の前半は岩塚宿が、後半は万場宿が担っていました。しかし、庄内川渡しの管理は万場宿で行われ、万場宿のほうが潤っていたようです。
岩塚宿の中心地です。右手には本陣がありました。
岩塚宿場跡の表示があります。
左手に入ると八幡社の裏手に出ます。
本殿を収めている鞘堂の屋根は茅葺で、現在は屋根に覆いが掛けられています。
その先、庄内川の土手道に向けてわずかに坂を上りますが、その先で庄内川は渡れないので、手前の道を右折して上流にある万場大橋へ迂回します。
迂回のために右へ入る角の右手には、道標とも社標とも言われている石碑が埋もれて立っています。左の石標の右面には「七社」と記されているのでしょうか?
細い路地の先には、上を名古屋高速5号線、下を県道115線の高架が横たわっています。
高架に近づくと、その先には七所社の鳥居が見えてきます。佐屋街道は県道の万場大橋を渡るので、高架の脇を左へ入ります。しかし、その前に七所社へ寄り道していきましょう。
鳥居の脇には、七所社の由緒と1月に行われる「きねこさ祭」の説明書きがあります。
七所社は、保存されている神鏡に「元慶8年(884年)御田天神」の銘があり、創建はそのころだと推定されています。また、応永32年(1425年)に岩塚城主の吉田守重が社殿を修復した旨の棟札が残されています。
きねこさ祭は尾張三大奇祭に数えられ、1本の笹竹を12名の役者が持って庄内川に入ります。その中の1人が笹竹に上って、笹竹の割れる方角でその年の吉凶を占う祭りです。
鳥居の先には祭文殿が建っています。
本殿の脇には日本武尊腰掛岩があります。景行天皇40年(110年)に日本武尊が東夷を平定して凱旋する際、大河(庄内川?)を渡船するまで待つ間、腰を掛けていた岩だと言われています。
また、七所社境内には奈良時代のものとみられる古墳が3基あり、日本武尊の腰掛岩とこれら古墳から、この地を「岩塚」と呼んだと言われています。
先ほどの県道の高架脇まで戻って右折して、県道へ上がる階段を上ります。
県道の歩道を歩きます。
さすが、庄内川は大きい。
その先で佐屋街道は土手道から右手に下っていきます。