2023年10月22日
熱田橋
松田橋から国道1号に入ると、ビルやマンションが並ぶ通りになりますが、内浜交差点から左へ入ると静かな住宅街に変わります。その先で新堀川を渡ります。
宮宿
名鉄線をくぐると、右手の小スペースに1本の大きな木と、「水と緑と歴史のまち 宮地区」と記された、説明板が立っています。このあたりに一里塚があったと言われていますが、明確には示されていません。伝馬町の一里塚で、日本橋から数えて89里目の一里塚です。
裁断橋跡の碑が立っています。天正18年(1590年)の小田原の陣で18才になるわが子を失った母親がその菩提を弔うために、東海道に架かる橋の架け替えを行いました。三十三回忌に再び架け替えを試みましたが、完成を待たずに母親も亡くなりました。母親の養子がその意思を引き継ぎ、橋を完成させたそうです。
その隣には都々逸発祥之地の石碑も立っています。1800年頃、ここ熱田付近で生まれたそうです。
左手には鈴之御前社(れいのみまえしゃ)があります。熱田神宮境外末社で、東海道を往来する旅人が熱田神宮に参拝する際に、身を清めてお祓いするところでした。
東海道は県道225号を横断しますが、中央分離帯が横たわり、渡れないので右手の国道1号へ向かいます。
伝馬交差点で県道を横断して、先の東海道へ向かいます。
県道で遮られていた東海道の先も静かな通りです。
その先でT字路に突き当たります。ここは東海道(左手)と美濃街道(右手)の追分でした。
右手角には道標が立っています。
説明板によると、
(東)北 さやつしま道 同 みのち道、
(西)東 江戸かいとう 北 なこやきそ道
(北)南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社貮丁
と記されているようです。寛政2年(1790年)の建立で、元はT字路の左手角(南東側)に立っていました。
また、この場所(北東側)には宝暦8年(1758年)に建立された道標が立っていました。現在は復元されて、T字路手前の東海道脇にあったようですが、見過ごしてしまいました。
T字路の正面には、ほうろく地蔵尊が祀られています。かつて、焙烙売りの商人が、知立あたりの草むらで倒れていた石仏を荷物の片方の重しとして持っていき、尾張までやって来ました。しかし、重しの役割も終わり、ここで捨ててしまいました。地元の人がこれを拾い上げて祀ったのが始まりと言われています。ここ焙烙地蔵尊のあるあたりには、かつて、熱田神宮の摂社で源太夫社が建っていました。焙烙地蔵尊は、元は追分より東寄りの東海道沿いにありました。
追分を左折して、七里の渡しへ向かいます。すぐのところで、国道247号を斜めに横切りますが、ここは、「宮の渡し歩道橋」で反対側へ渡ります。
歩道橋の上から東海道を望みます。
国道と東海道との角にあるのはひつまぶしで有名な蓬莱軒ですが、待ち時間2時間という繁盛ぶりです。かつては、このあたりに宮宿赤本陣がありました。
さらに、東海道を進むと正面に公園が見えてきます。
道なりに公園前を右へ曲がります。堀川に面した一帯が宮の渡し公園として整備されています。
そして、七里の渡しに到着しました。
最初に目につくのは時の鐘です。かつて、時の鐘は蔵福寺(熱田神宮一の鳥居近く)にありましたが、太平洋戦争の空襲で鐘楼は焼失してしまいました。昭和58年(1983年)に残った鐘とともに、この場所で復元されました。
七里の渡しの航路を照らす熱田湊常夜燈です。寛永2年(1625年)、近くの聖徳寺脇に建立されました。その後、承応3年(1654年)にこの地に移されましたが、昭和30年(1955年)に復元されました。
七里の渡し船着場跡の碑があります。
「松尾芭蕉と七里の渡し」の説明板があります。芭蕉は江戸に下る途中、名古屋や鳴海の門人たちとの交流を深め、七里の渡しからあゆち潟への舟遊びをたびたび行いました。この中で、芭蕉の蕉風が確立していったと言われています。名古屋市内には蕉風発祥の碑があるそうです。
東海道は宮宿と桑名宿の間を海路でつなぎ、およそ7里の距離があったことから七里の渡しと呼ばれるようになりました。しかし、干潮の時は、遠回りをせざるを得ず、その距離は10里になったそうです。
外洋(伊勢湾)を航行するのでいろいろな危険に出会ったり、舟止めが発生するため、これに変わって、熱田から佐屋街道を6里ほど通って、佐屋の渡しから、川路で桑名宿へ向かうルートも好まれました。三里の渡しと呼ばれていました。
常夜燈と時の鐘です。
往時の船着き場の様子です。鳥居が立っていますね。広重の「東海道五十三次内 宮 熱田濱之鳥居」には大きく鳥居が描かれています。
公園の冠木門を抜けると、通りの向かいには熱田荘が建っています。明治29年(1896年)に建てられた料亭「魚半」の建屋でした。
この後、七里の渡しから桑名宿へ渡らずに、佐屋街道を通って三里の渡しから桑名宿へ向かうことにします。ここから、一旦、美濃街道との熱田の追分まで戻ります。