今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

佐屋街道(2)烏森~岩塚宿~万場宿~神守宿~佐屋宿・三里の渡し~佐屋 その5

 

2023年11月11日

 

愛宕神社

 

 埋田の追分で消失した佐屋街道と合流して愛宕神社境内の西側を通り、その先の二又を右に入りますが、二又を左折して愛宕神社の正面に出ます。

 白い拝殿が静かに鎮座しています。このあたり一帯の愛宕という地名が近郊の人々の信仰を集めているようです。

 

 街道らしい通りです。区画整理された通りの向きとは完全に無関係に斜めに通っています。

 

 県道114号を斜めに横断します。

 

 その先の県道105号も斜めに突っ切ります。

 

 やがて、区画整理された道に合流して南へ進みます。十字路を右に入ると名鉄尾西線日々野駅に続いています。

 

 愛宕神社から15分ほど歩くと、T字路に突き当たるので巾着餅の店の角を右折します。

 

 この辺りは木曽川が作る沖積平野で海抜はマイナス0m地帯だそうです。

 

 名鉄尾西線の踏切を渡ります。

 

 線路を渡り、数えて三つ目の十字路の食い違い十字路を左折します。

 

 ひと区画目の十字路を右折します。左右方向が佐屋街道の旧道のようです。

 

 住宅地の合間を通り、さらに、変電所の脇を通ります。

 

 その先で県道に突き当たるので、左折します。

 

 突き当りの右角には、佐屋海道址の石碑が立っています。

 

 県道歩きに変わります。

 

 市街地に入ってきたようです。

 

 天神社が見えます。

 

 須依交差点を右折して佐屋湊へ向かいます。

 

 

佐屋宿

 

 佐屋宿に入ります。趣のある旧家が建ち並んでいます。

 

 須依交差点から400mほど歩くと信号機のある交差点に出ます。かつて、左手には旅籠近江屋、右手には御番所や舟会所がありました。

 

 交差点手前の左手には佐屋舟場道の道標が立っています。説明板には、個人のお宅にあったものをこの場所へ移設したと書かれています。もとはどこにあったのでしょうか。「左 さや舟場道」と刻まれています。

 

 また、「きこくの生垣」の説明板には、尾張名所図会の佐屋湊が描かれています。街道の突き当りが佐屋川だったのがよく分かります。

 ちなみに、この尾張名所図会にはきこく(からたち)の生垣が描かれていて、「現在このブロック塀上に見える」と記されていますが、どの木なのかよく分かりませんでした。

 

 向かいの交差点の角には佐屋代官所址の碑が立っています。

 

 尾張藩徳川義直は、寛永11年(1634年)、この地に佐屋御殿を築き、天明元年(1781年)には代官所を置きました。

 

 交差点を渡った左手公園の片隅に佐屋三里之渡跡碑が立っています。

 かつてはこの先に佐屋川が流れていて、佐屋湊から船で桑名湊へ向かいました。その航路は佐屋川から木曽川に出て、木曽川揖斐川の間にある鰻江川を通って揖斐川に入り桑名に至る三里の川道でした。下り2時間、上り3時間の舟旅だったと言われています。

 しかし、佐屋川には木曽川の土砂が流れ続け、川底をすくう工事も行われましたが、江戸時代後期には、渡しは半里下流の川平湊へ移されてしまいました。その後、明治になって宿駅制度が廃止になり、新たな東海道が設置されました。そして、明治34年(1901年)に木曽三川の付け替え工事が行われ、佐屋川は廃川になり、今はその跡も残らず住宅地に変わってしまいました。

 

 佐屋三里之渡跡碑で佐屋街道歩きは完了です。

 今日泊まる近鉄四日市のホテルへ移動するため佐屋駅へ向かいます。途中水鶏(くいな)塚があるので一旦、須依交差点方面に戻りますが、水鶏塚道標を見過ごしてしまい、結局須依交差点を右折してその先で右に入りました。

 

 元禄7年(1694年)、松尾芭蕉が江戸から故郷伊賀へ向かう際に佐屋の門人の家で逗留した際に詠んだ句、

 水鶏なくと 人のいえばや 佐屋泊

の句碑が立っています。後の享保20年(1735年)に芭蕉の遺徳を偲んで建立されました。

 

 水鶏塚の前は八幡社です。

 

 そして、佐屋駅に到着しました。時刻は13:45です。今日は5時間10分の行程でした。佐屋駅から弥冨乗り換えで近鉄四日市駅へ向かいます。

 明日、桑名の七里の渡しから伊勢路に入ります。

 

 

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