今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(9)所沢から入間川 その1

 

2023年12月29日

 

所沢

 

 9:00に所沢駅へ到着しました。空は晴れていますが、寒いです。

 東村山と所沢の間には3本の鎌倉街道が通っていたと推定されているので、前回は東村山駅から所沢駅まで歩き、そこから、一旦東村山まで戻って、再び所沢まで歩きました。今日は入間川まで歩く計画ですが、ほぼ、一本道です。ここのところ寄り道が多く、進み方が鈍かったのですが、今日は多少は前に進めるかもしれません。9:05に歩き始めます。

 

 10分強歩いて、今日のスタート地点である南小学校角に到着します。薬局の角を右折して鎌倉街道に入ります。

 

 住宅街の中ですが、狭幅の街道をトレースしている道を進みます。

 

 鎌倉街道は県道4号の交差点脇に出ますが、交差点に関係なく、そのまま真っ直ぐ突っ切っています。しかし、街道ウォーカーは交差点の横断歩道を渡ります。

 

 その先、所沢第一文化幼稚園の脇に、旧鎌倉街道の碑が立っています。

 

 NTTとコナミスポーツの間を抜けると、道は下り坂になります。この先の東川が造る段丘崖を降りていきます。

 

 富士幼稚園の手前には、掘割の法面でしょうか、街道の痕跡が残っているように見えます。脇には鎌倉街道の説明板が立っています。説明板によると、所沢を有名にしたのは、太平記であり、廻国雑記(かいこくざっき)でした。太平記には小手指ヶ原の合戦が記載され、廻国雑記には、

 野あそびの さかなに山の  芋そえて ほり求めたる 野老沢(ところさわ)かな

という歌が添えられています。「野老」は山の芋科の植物です。ちなみに太平記南北朝時代の軍記物で、廻国雑記は室町時代の紀行文です。

 

 富士幼稚園の先は実蔵院です。鎌倉街道に向いては建っていません。街道からは本堂脇に入ることができます。

 

 本堂から山門をくぐり、振り返ります。実蔵院の山号は野老山です。

 

 鎌倉街道に戻るとすぐに県道179号に出ます。県道はかつては江戸道と呼ばれ、田無や江戸へ通じる道でした。

 鎌倉街道が活躍した中世の時代には、すぐ北にある宮本町(河原宿)あたりに所沢宿がありました。しかし、江戸時代に入ると、江戸道が整備され、鎌倉街道沿いに代わって江戸道のここから東側が宿場町として栄えるようになりました。所沢宿には多くの道が集まり、交通の要所でもあり、三のつく日と八のつく日に市が開かれ、賑わいを見せました。

 江戸道を横切って先に進みます。

 

 これまで、ほぼ直線的に進んできた鎌倉街道ですが、突き当りを右折します。角の左手には、新光寺の山門が建っています。竜宮門ですね。

 

 新光寺の本尊である聖観世音菩薩は行基菩薩の作と言われています。

 建久4年(1193年)に源頼朝那須へ鷹狩へ行く途中、昼食のために立ち寄ったと言われ、その際、幕舎の土地を寺に寄贈しました。後に、その土地はかすめ取られてしまいますが、新田義貞が鎌倉攻めを行う際に戦勝祈願を行い、勝利した帰りにその土地を取り戻したと言われています。

 

 山門の先には観音堂が建っています。本尊が安置されている本堂は右手にあります。

 

 鎌倉街道は突き当たりで途切れてしまうので、右折して少しだけ東へ進みます。

 右手には東川が流れていますが、ひょっとしたら、新光寺の境内で暗渠になっているのかもしれません。

 

 すぐに県道6号に出るので、ここを左折しますが、少し寄り道をします。県道を右折して、開明橋で東川を渡り、左手にある公民館裏手の東川沿いの遊歩道へ入ります。

 

 遊歩道の左手にある建屋は所沢市の旧庁舎で、その前に架かっている橋は新生橋と呼ばれています。どことなく趣のある橋です。

 

 新生橋から東川(来た道、西側)を望みます。水量は少なそうです。

 

 旧市庁舎から通りを横断して、さらに東へ進みます。

 

 このあたり一帯は、安政3年(1856年)創業の醸造元、深井醤油でした。右手には、蔵とともにショップがあります。深井醤油を使った醤油焼きそばが所沢の名物とのことです。おいしそうですね。

 

 左手スーパーの駐車場の中には見世蔵を利用した資料室があります。

 

 入り口からガラス張りになっていて、中には入れません。帳場や金庫が見えます。創業当時から使われていたもので、既存の蔵に移設したものだそうです。

 

 さらに、東へ進みT字路を右へ道なりに回り込むと、

 

 薬王寺の山門の前に出ます。

 

 薬王寺新田義貞の三男、義宗ゆかりの寺として知られています。

 新田義宗は足利氏から鎌倉奪還を図りましたが、上野国沼田庄で敗北し、戦死しました。一方で、義宗は生き延びてここ所沢に逃れ、再起を図りましたが、願いかなわず出家して一族郎党を弔いながらこの場所で亡くなったという説も残っています。

 

 境内の一角には「正四位近衛少将新田義宗朝臣終焉の地」と記された石碑がひっそりと建っています。

 

 鎌倉街道に戻り北へ進みます。おそらく、新光寺前で途切れた街道は、この辺りで復活しているはずです。ここには鎌倉街道の所沢宿(河原宿)がありました。

 

 右手には所澤神明社へ通じる参道が伸びています。けやきの大木が立っています。

 

 所澤神明社は文政9年(1826年)の大火で社殿や別当寺が焼失し、創建年代は不明と言われています。しかしながら、日本武尊が東征の際に、近くの小手指ヶ原で休憩し、天照大御神へ祈りを捧げたと伝えられ、土地の人々が天照大御神を崇拝したのが神明社の始まりと考えられています。

 

 街道に戻り、坂道を上ります。東川の作る段丘崖のようです。

 

 

鎌倉街道上道(9)所沢から入間川 その2へ続きます。