2023年12月23日
八国山
芳賀善次郎氏の著書によると、東村山から所沢へ向かう鎌倉街道は3つに分かれ、「西側の道」は八国山を越えていきます。
将軍塚から尾根道を西へ戻ると、右手には車止めが現れます。
八国山の尾根道から北側は所沢市になります。北斜面には住宅街が広がり、鎌倉街道の痕跡は全くありません。
車止めから道なりに住宅街の中を下り、十字路を左折すると右手には公園があります。
悲田処跡公園という名前です。
公園の中の斜面を下り、左隅あたりに文字はかすれてしまっていますが「武蔵国悲田処跡」の標柱が立っています。悲田処とは平安時代に武蔵国で設けられた旅人の救援所、宿泊所のことです。この付近にはかつて、東山道武蔵路が通っていたこともあり、所在が推定されていますが、実際は悲田処の存在はよく分かっていないようです。また、東村山の徳蔵寺付近にあったという説もあります。
悲田処跡公園の中を横切り、さらに、住宅街を下っていくとバス通りに出ます。左折すると、すぐのバス停の名前は悲田処跡です。
西へ歩いて行き、悲田処跡バス停の次の水天宮下バス停の手前で右に入ります。
突き当りを左折します。「←スポット4(雑木の森) 鳩峯八幡神社・トトロの森2号地 240m」と記された標柱が立っています。
「→スポット4(雑木の森) 鳩峯八幡神社・トトロの森2号地 150m」と記された標柱に従って、鳩峯八幡神社を目指して右折します。
坂道を上っていきます。
左手には鳩峯八幡神社の鳥居が立っています。
木立ちの高台の先に社殿があり、雰囲気のよい神社です。
鳩峯八幡神社は、延喜21年(921年)に山城国石清水八幡宮から勧請されたのが始まりと言われています。
拝殿の脇には「新田義貞兜掛松 史跡」の石碑と柵に囲まれた若い松が立っています。元弘3年(1333年)に新田義貞が戦勝を祈願した際に、松の木に兜を掛けたという伝承が残っています。
鳥居の前から少し戻り、十字路を左折します。だいぶ陽も傾いてきました。
道なりに進みます。左手には所沢の高層マンション群が見えます。
鳩峯八幡神社から道なりに10分ほど歩くと、柳瀬川の袂でT字路に突き当たります。ここを左折して吾妻橋を渡ります。T字路の左右方向が「西側の鎌倉街道」になります。
ここにもシラサギがいますね。
吾妻橋を渡り、すぐの二又を道なりに左へ入り、さらに、信号のある三叉路に出るので、右に入ります。
角には長屋門と土蔵が建っています。ここは所沢郷土美術館です。江戸時代から続く医者の旧宅で、幕末から明治初期に建てられた主屋や長屋門などが国の登録有形文化財に指定されています。
土蔵の前には馬頭観世音が鎮座しています。元は先ほど通過した、吾妻橋を渡った二又のあたりに立っていたのを移設したものです。
柳瀬川の作る段丘崖を上っていきます。
左手、南陵中学校の校門の脇には「東山道武蔵路」の説明板が立っています。平成元年(1989年)、南陵中学校の校庭で発掘調査が行われました。奈良時代、武蔵国は当初東山道に属していて、東山道の主道から武蔵国国府へ支道が伸びていたのが武蔵路にあたります。国分寺あたりでその遺構を見てきましたが、この辺りでは、東村山駅から八国山を越え、南陵中学校まで通っていたと推定されています。
その先の西武池袋線の踏切を越えたすぐのところで、本日のゴールである南小学校角に到着しました。右からの道が午前中歩いた「東側の鎌倉街道」です。次回はここから左へ入ります。所沢駅へ向かうために、パート1と同じ道を辿ります。
そして、所沢駅へ到着しました。時刻は15:30です。今日は5時間55分の行程でした。西武線に乗って帰路に着きました。
*国土地理院の地図を加工しました。