今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(11)西大家から大橋 その4

 

2024年1月13日

 

苦林

 

 鳩山町今宿から県道171号を通って越辺川に架かる今川橋を渡ると、その先で毛呂山町苦林地区に入ります。最初の信号のある交差点を右折して道なりに進むと、右手に小さな公園があります。

 

 公園の隅には庚申塔が立っています。台座には3猿を確認することができます。

 

 苦林野古戦場跡へ向かうため、公園から90度、方向を変えて、田んぼの中を西へ進みます。

 

 一旦車通りに出ますが、少しだけ南へ歩いて、蔵のあるお宅の角を左へ入ります。

 

 再び、見渡す限りの田んぼです。正面に見える林を目指します。

 

 ちょっとだけ土道を通って林の中を抜けます。

 

 林を抜けると右手に古墳があります。大類2号墳と呼ばれる前方後円墳です。

 

 その先で車通りに出るので右折します。少し歩くと古墳のお尻の部分が見えてきます。

 

 古墳の上には苦林野古戦場碑と「苦林古墳」、「苦林野古戦場」、「苦林野合戦供養塔」の説明板が立っています。

 

 説明板によると、貞治4年(1365年)に、ここ苦林野で鎌倉公方足利基氏と下野の宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可(ぜんか)との間で合戦がありました。「太平記」には「小塚の上に打ち上りて・・・」と記されていて、小塚がこの古墳(苦林古墳)と言われています。ちなみに、この芳賀禅可は芳賀善次郎氏の祖先だそうです。

 

 また、古墳上の北側には苦林野合戦供養塔が立っています。江戸時代の文化10年(1813年)に里人によって建立されたもので、正面には千手観音が彫られ、左右それぞれの面に3つの仏の文字が刻まれています。千手観音を加えた7体の仏を、日を変えてそれぞれ本尊として祀った七夜待塔と呼ばれるものです。

 苦林野合戦供養塔が立つこの苦林古墳付近一帯には100基以上の前方後円墳が点在し、苦林古墳群と呼ばれています。古墳時代後期のものと考えられています。

 

 苦林古墳前の道を北へ進み、県道171号に出て、鳩山町へ戻ります。少しだけ坂戸市に入りますが、すぐに毛呂山町に入ります。

 

 県道歩きは味気ないので、右手に入り、越辺川の土手に上がって鳩山町へ戻ります。土手上はサイクリングロードになっているようです。

 

 土手道も終わり、今川橋の袂まで戻ります。

 

 越辺川を渡り、鳩山町に入ります。

 

 そのまま県道を歩き、先ほどの歩道橋まで戻ります。

 

 歩道橋を過ぎると緩やかに右へカーブして、坂道を上ります。この辺りから旧鎌倉街道と重なってきます。

 

 鎌倉街道は越辺川の作る河岸段丘の台地(段丘面)の上に出ます。かなり上ってきました。

 

 街道はすぐのところで右の道に入ります。

 

 十字路の角に地蔵尊と2基の供養塔が立っています。赤沼の供養塔と呼ばれています。真ん中の日本廻国四国七遍供養塔の右面には「安永八年 北ハひきの岩殿道 中ハすがや野原道 西ハ小がわちち婦道」と記され、道標を兼ねています。中の道がが鎌倉街道にあたります。

 左の石仏は地蔵菩薩と彫られていています。右は百八十八箇所供養塔と記されています。さらにその右脇で傾いて立っているのは道標のようです。

 

 街道はすぐに県道171号に合流します。旧鎌倉街道から少し外れます。

 

 保健センタ前バス停の先を右折します。

 

 道は二又に分かれるので左の道へ入ります。ちょうどこの手前あたりで鎌倉街道は横切っているようなのですが。

 

 右手を見るとこれは掘割りの跡でしょうか?

 

 道なりに進み、ため池の脇を回り込むとT字路に突き当たるので、左折します。おしゃもじ通りと呼ばれています。

 

 左手の民家の前辺りに鎌倉街道は通っていたのでしょうか。

 

 

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