今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(26)近鉄四日市~石薬師宿~庄野宿~井田川 その1

 

2024年4月12日

 

諏訪

 

 8:40くらいに近鉄四日市駅に着きました。気候も良くなり、春の東海道歩きを始めます。昨年の秋から、5か月ぶりの四日市です。天気は晴、最高気温は20℃くらいになるようです。今回は二日間かけて関宿までたどり着ければと思っています。

 8:50に駅からスタートします。

 

 すぐに、今日のスタート地点に到着します。前回はアーケード商店街を抜けて、この場所で終わりにしました。そして、幅の広い駅前通りの向こう側、2本の細いビルの間がこれから歩く東海道です。

 

 駅前通りをそのまま横切ることはできないので、その先の諏訪栄町交差点で反対側へ渡り、東海道に戻ります。角には東海道の標柱が立っています。

 

 東海道に入ると、阿瀬知橋を渡り、すぐの左手の奥まったところには崇顕寺があります。小説家丹羽文雄明治37年(1904年)、ここ崇顕寺の住職の長男として生まれました。街道脇には「丹羽文雄生誕之地」の大きな石碑が建っています。ちょうど、保育園の送りでしょうか、お父さん、お母さんが石碑の前に集まり、写真は撮れませんでした。

 さらに、趣のある街道を歩ていきます。歩道の白線の内側には東海道筋を示すオレンジのカラーリングが続いています。

 

 近鉄線の高架をくぐります。

 

 ここにも「こにゅうどうくん」の幟が。

 

 落合川を渡ります。

 

 鹿化(かばけ)川を渡ります。

 

 四日市市内で見かける東海道の標識が歩道脇に立っています。現在地の位置関係がよく分かります。

 

 日永地区に入ると、大宮神明社の鳥居が見えてきました。

 

 大宮神明社の祭神は天照大御神です。垂仁天皇の時代、倭姫命天照大御神を伊勢へ御遷しする際に、海辺に立つ舟付明神に一時的にお泊りになったと言われています。往時はこの地より奥まったところに海岸線がありました。しかし、およそ400年前に舟付明神が炎上し、東海道沿いのこの地に移ってきました。

 

 興正寺の前を通ります。貞観6年(864年)創建と言われています。天白川が寺の裏手から南側へ回り込んでいるのは滝川一益が堀の役目を果たすように付け替えたと言われ、この堤を滝川堤と呼ぶようになったそうです。

 

 そして、その天白川を渡ります。

 

 川沿いの桜が満開です。今年の桜は4月に入ってから咲き始め、見頃はいつもより遅くなりました。

 

 奥には両聖寺が見えます。

 

 門前にはつんつく踊りの説明板が立っています。つんつく踊りとは、大勢の人々が太鼓や笛の囃子に合わせて輪を作って踊るもので、四日市の無形民俗文化財に指定されています。その始まりは、天白川の堤を踏み固めるために踊ったとも言われています。

 

 日永地区を進みます。

 

 日永神社です。

 

 日永神社の祭神は天照大御神で、古くは南市場神明社とか南神明社と言われていましたが、明治40年(1907年)に合祀により日永神社となりました。

 

 本堂の脇には、かつて日永追分に建っていた追分道標があります。明暦2年(1656年)に建立されたもので、東海道最古のものと言われています。正面には「大神宮 いせおいわけ」、右面に「京」、左面に「山田」と刻まれています。嘉永2年(1849年)に現在の道標が追分に建てられた際に、この道標は近くの追分神明社へ移されましたが、明治40年(1907年)の合祀の際に、この場所に移されました。

 

 皇大神宮遥拝所の碑も建っています。

 

 西唱寺です。創建は永禄2年(1559年)で、元は浄土宗の寺院でしたが、浄土真宗に改宗しました。空襲で多くの寺宝を消失してしまいました。

 

 すぐのところに日永の一里塚の標柱と説明板が立っています。日本橋から数えて、記念すべき100里目の一里塚です。

 

 その先には街道の名残の松が1本立っています。かつてはこの辺りから泊の集落までの縄手道に松並木が続いていました。最後に残った1本です。

 

 四日市あすなろう鉄道泊駅からの道との十字路に出ます。時刻は10:00ですが、休憩のために左折してイオンタウンへ向かいます。

 

 イオンにあるスタバで一休みして、およそ、40分後に東海道に戻りました。

しばらく歩くと、味噌醤油の醸造元の伊勢蔵があります。駐車場の奥には味噌桶が。

 

 伊勢蔵の先で、国道1号に合流し、すぐのところで日永の追分に出ます。右の道が東海道、左の道が伊勢街道で、その分岐になっています。

 

 

東海道(26)近鉄四日市~石薬師宿~庄野宿~井田川 その2へ続きます。