2014年11月10日
田中宿
まとまった休暇が取れたので、2泊で街道歩きを行うことにします。早朝、車で家を出発し、上田駅近くの駐車場に着いたのが8時過ぎでした。気温は12℃、天気は曇っていますが、ところどころ青空も見えます。8:38発小諸行のしなの鉄道に乗りました。
およそ10分で田中駅に到着し、8:50より街道歩きを開始します。
本日のスタート地点は駅から150mほどの田中駅前交差点です。交差点を左折して、海野宿を目指します。このあたりが田中宿の西の桝形があったところです。
田中宿と隣の海野宿は合宿で、両方でひとつの宿場扱いでした。本陣は両宿に設置され、伝馬役は半月交代となっていました。
海野宿までは2kmの距離です。道の途中、所どころに道標が立っています。
田中小学校前の紅葉が見ごろになっています。
しなの鉄道沿いの道を歩きます。しばらく進むと、国道18号からの道路の高架の下をくぐります。どこから入るのか分からなかったのですが、左手には遊歩道が設置されています。後から調べると田中小学校の前から入ることができたようです。
木いっぱいに柿が実っています。
車道の高架をくぐるとすぐに、しなの鉄道の踏切を渡ります。
海野宿
踏切を渡った右手に小さな公園があり、「北国街道 海野宿」と書かれた石碑が迎えてくれます。いよいよ海野宿です。
その先、右手に白鳥神社の境内が見えてきます。ケヤキの葉も茶色になっています。神社の角を右折すると、鳥居の立つ神社正面に出ます。東の枡形跡で、ここから海野宿が始まります。
白鳥神社は、海野宿の産土神であり、海野氏、真田氏の氏神として祀られ、日本武尊の伝説を縁起とする歴史ある神社です。
海野宿の町並です。道の中央に用水が流れ、その両側に江戸時代の宿場町、そして、明治時代の養蚕で栄えた町並が続きます。うだつを立てる家が結構あります。また、気抜きと呼ばれる越屋根は、明治に入って宿場制度が廃止された後、養蚕を営むようになった名残だそうです。
大きなうだつの上がっているお宅です。
本陣跡です。長屋門が残っています。本陣跡の石碑が立っています。
海野宿は妻籠、奈良井に続いて長野県で3番目に重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。どこのお宅も絵になります。路地も美しいです。
東の桝形から、左右の建物の写真を撮りながら15分、西の桝形跡に到着します。ここには、海野宿碑と案内板が立っています。
その先、橋を渡ると西海野地区へ入ります。新しい家も多いのですが、中央に用水が流れ、旧家もところどころ見られ、海野宿と似た趣があります。
しばらく歩くと、町並が途切れ、左手には千曲川の流れを望むことができます。
大屋駅が近くなり、人家が増えてきます。東御市から上田市に入ります。
海野宿西の桝形から15分で、右手にビジネスホテルアカマルがあるT字路を左折します。仁王堂の標識が架かっています。
正面に千曲川の土手が見えてくる突き当りの左手には、仁王堂が建っています。北国街道はここを道なりに右折します。
しばらく、路地を歩くと大屋駅に至る国道152号を横断します。右手奥が大屋駅になります。この道は、ちょうど1年前、中山道歩きの帰りに長久保バスターミナルから上田駅行のバスに乗った時に通りました。
国道を横断し、さらにその先の細い路地を進みます。すぐ左手には大屋神社があります。落ち葉が敷き詰められていて、良い雰囲気です。
境内には猫石と呼ばれる石があります。征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐へ向かう際、千曲川を渡れずに思案していたときに一匹の猫が現れ、大岩から浅瀬を渡っていったの見て、無事に渡ることができたという謂れがあります。この大岩は現代の大屋橋の脇にありましたが、橋の架け替え工事の際に、粉砕されてしまいました。この一部が猫石となりました。
やがて、はらだ内科クリニックがあるところで、T字路に突き当たり、ここを左折します。
緩やかに坂道を下ります。
やがて、道はしなの鉄道に沿うようになります。かつて、このあたりには桜並木がありましたが、老木となり3年前に伐採されたそうです。左手、歩道の柵に、往時の写真や伐採の経緯などのパネルが設置されています。
しばらく歩いて、道を間違えたことに気付きました。手前の信号機のところを左折するのが北国街道でした。そのまま進んで、赤い家の手前で気づきましたが、戻るのも面倒なので、ここを左折しました。
5分ほど歩くと、北国街道に突き当たり、右折して街道に戻ります。
その先右手、伊波保神社の前に観光案内図があります。それによると、通らなかった街道の部分に岩下の一里塚跡があったようです。
北国街道(2)田中から坂城 その2へ続きます。