2023年3月20日
水守
須賀神社の大クスノキを見上げてから突き当りの手前の道を右折すると、その先で水守中央公園に突き当たります。その左手の公園の入り口から入ります。公園の中に名残の松が何本か続いています。
この道は公園の中を通る東海道です。公園の地図には南側で弧を描く赤い道で示されています。東(右)から西(左)へ歩いています。そういえば、中山道の美江寺宿のあたりでも公園の中を街道が通っていました。
公園を出た先、セブンの裏手に東海道は続きます。
ここにも松の木が。
東海道の旧道はその先で行き止まりになり、右手を走る県道381号に出ることができます。旧道はこのまま直進してこの先の藤枝宿の東木戸あたりに繋がっていました。
角には「水守地区東海道のいまむかし」の旧道を示す地図が立っています。ここから県道は横断できないので右手の水守交差点まで迂回して、正面にあるモスで昼食を取ることにします。
30分ほど休憩してから、現代の東海道を進むため、モスの右手に入り、その裏手を左へ入ります。
藤枝宿
成田山新護寺の手前には判読不明の木柱が立っています。これが東木戸跡・領主番所跡を示す標柱のようです。「いまむかし」の地図によると、手前の信号のある交差点あたりから現在の道が旧東海道と合流しているようです。
道を隔てたはす向かいには「濱小路 是より焼津湊まで一里余」の標柱が立っています。成田山の前から南東に延びる路地が焼津湊へ通じる濱小路でしょうか。
成田山新護寺の前を通過します。
「サッカーのまち ふじえだ」です。街灯もサッカーボール風です。
田中城の大手木戸跡付近を通過します。交差点を左折すると田中城へ通じています。田中城は同心円状の堀が巡らされていることで有名です。
商店街に入ります。足元のブロック絵が問屋場跡を示しています。
眼科の生け垣には白子由来の碑があります。本能寺の変の直後、紀州白子の小川孫三が徳川家康を船で無事三河へ送り届け、その褒美としてこの地を授かりました。
左手奥には慶全寺の山門が見えます。
大慶寺の久遠の松が見事です。770年前に日蓮上人がお手植えしたと言われています。
こちらは下本陣があったあたりです。
足元にはブロック絵があります。
そのすぐ隣は上本陣跡です。ブロック絵は下本陣と同じ図柄です。
その隣は上伝馬の問屋場跡です。広重の浮世絵と説明書きがあります。先ほど通過した田中城大手口あたりにも問屋場があり、そちらは下伝馬の問屋場と呼ばれていました。
右手は正定寺です。田中藩主土岐頼稔が大阪城代に出世した際に寄進した黒松、「本願の松」が見えます。
その先で瀬戸川に架かる勝草橋が見えてきます。かつてはこの辺りに藤枝宿の京口がありました。
瀬戸川の土手沿いには桜が植えられ、桜祭りでしょうか、ぼんぼりが架けられて準備万端です。
傍らには瀬戸川の川越の説明板があります。江戸時代に瀬戸川にも橋は架けられておらず、川越人足に頼るか、自分の足で渡っていたそうです。
勝草橋です。
瀬戸川を渡ります。
勝草橋の親柱は照明付きで立派です。名前の由来も記されています。
かつて田中城の軍勢がこの付近の河原で合戦に勝利したことにより勝軍(かちいくさ)が訛って勝草となった説や、この地の志太から植物のシダになりシダの別名が勝草であることからという説があります。
かつては橋を渡ったところに一里塚がありました。志太の一里塚で日本橋から数えてちょうどの50里目の一里塚です。脇には秋葉神社の常夜燈と石祠があります。
さらにすぐのところに為善館の説明板が立っています。為善館は明治の初期に寺子屋が発展した学校でした。その後、明治23年(1890年)に尋常小学校が設立した際に発展的に閉館となりました。
これも名残の松でしょうか。歩道を塞ぎ、トラテープが巻かれています。
その先の標柱は南洋のデパート王、岡野滋蔵の生誕地を示しています。標柱の横面には彼の信条「希望に起き、感謝で眠れ」が刻まれています。
松の大木が2本、街道の面影を残しています。
そして、青木交差点に着きました。本日の街道歩きはここまでとして、左折してJR藤枝駅へ向かいます。
直線の道を12分ほど歩き藤枝駅に到着しました。時刻は13:50です。今日は5時間45分の行程でした。