今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(14)藤枝~島田宿~金谷宿~金谷 その1

 

2023年4月8日

 

青木

 

 8:30くらいに藤枝駅に到着しました。今日明日は藤枝に1泊して、藤枝から掛川まで歩く予定です。前回のとろろ汁の旨さを自慢げに話したため、妻も「私も食べたい!」と言い出し、今回は二人で街道歩きをすることになりました。

 天気は2日間とも晴れの予報ですが、昨日、寒冷前線が日本列島を通過したため、その影響で今日は強風の予報になっています。

 8:35に歩き始めます。

 

 駅前の道を12分ほど直進すると、青木交差点に到着します。五差路の交差点のすぐ左手の道に入り、東海道歩きを始めます。風はほどほどに吹いていますが、歩くには支障はありません。でも少々寒く、ウインドブレーカーは着たままです。

 

 静かな住宅街を通ります。

 

 街道の名残の松が点在しています。

 

 左手には田中藩領傍示石の石碑が立っています。説明板によると、かつては「従是東田中領」と記された高さ3mほどの石標が立っていました。前回、仮宿交差点付近で通過した田中藩領傍示石の石標と対になっています。

 

 東海道と県道222号の交差する角に六地蔵を祀る鏡池堂が建っています。

 

 かつてこの付近には悪龍が住んでいるという鏡池がありました。鏡池堂はこの池から現れた六地蔵を祀ったと言われています。この六地蔵は33年に1度御開帳される秘仏となっています。

 

 鏡池堂の敷地の端にあるのは、これも六地蔵ですね。

 

 旧東海道から西へ続く古東海道跡が見えます。江戸時代以前は大井川の川筋が定まらず度々、この辺りの平野部で氾濫を起こしていました。このため、江戸時代前は旧東海道の北側に連なる瀬戸山の丘陵地帯が街道筋になっていました。この細い道がその名残りと言われています。

 江戸時代に入ると大井川の治水が進み、東海道は瀬戸山麓の平野部を通るようになりました。

 

 そのすぐ先には東海道と古東海道の追分になっています。東海道から東へ続く道は江戸時代以前の古東海道の道筋で、江戸時代に入っても焼津方面へ繋がったため、流通の多いこの道との分岐は追分と呼ばれていました。

 江戸時代以前、西から歩く旅人は、古東海道の瀬戸山の丘陵から降りて、そこから少し西へ戻り、この追分から東へ向かっていました。

 

 ここも松並木の残る街道です。

 

 カインズモール入口の先には延命地蔵堂が建っています。

 

 地蔵堂の先には染飯(そめいい)茶屋の石碑が立っています。この辺りの茶屋では強飯をくちなしで染めて小判型にした染飯を提供していました。くちなしは足腰が強くなると旅人には好評だったそうです。

 

 田中藩領主の水野忠善は領地内の大井川による水害を防ぐため、寛永12年(1635年)にこの場所から南へ360mほどの間に大堤防を築きました。建設費用が1千貫もかかったことから千貫堤と呼ばれました。

 ここ志太平野では大井川の洪水との戦いが繰り広げられていました。

 

 今現在の地図に照らし合わせた千貫堤の説明図が立っています。高さ3.6m、幅29mもあったようです。

 

 染飯を包んだ紙に印刷した版木が残っていて、市の指定文化財になっています。所有者の石野家の名前が記された標柱が立っています。

 

 明治7年(1874年)に近辺の村が集まり、この地に育生舎と呼ばれる公立の小学校を作りました。

 

 まだまだ、松並木を見ることができます。

 

 ここには「従是西田中領」と記された傍示石が立っていました。この辺りは田中藩領の上青島村と横須賀藩領の下青島村の境界が複雑に交差していました。

 

 右手には喜久酔(きくよい)の蔵元の青島酒造があります。創業は江戸中期です。

 

 東光寺谷川に架かる瀬戸橋を渡ります。

 

 橋を渡った右手には秋葉山常夜燈を収めた鞘堂が建っています。こうやってお堂に安置しているのは、地元の人の信仰の深さの現れですね。

 傍らには明治天皇御小休所址碑が立っています。

 

 名残の松が続きます。

 

 さらに片側に松が並んでいるところに、

 

 上青島の一里塚がありました。説明板には昭和57年(1982年)の発掘調査で円形の石積みが確認されたと写真付きで示されています。

 

 

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