今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(6)北府中から西国分寺 その1

 

2023年4月29日

 

北府中

 

 ゴールデンウイークに入りました。混雑を避けて、近場の鎌倉街道の続きを歩くことにします。

 北府中駅に着いたのは9:45です。天気は晴れ、五月晴れです。今日は20℃を越える予報で、街道歩きにはまずまずの天気です。8:50に歩き始めます。

 

 駅舎から階段を下り、府中街道を北へ進みます。

 

 府中刑務所の長い壁が続きます。

 

 刑務所角交差点を左折して、鎌倉街道の続きへ向かいます。

 

 JR武蔵野線の高架をくぐり、道なりに東芝の事業所脇を歩きます。

 

 前回、東芝の事業所に遮られた鎌倉街道は敷地の北側で復活します。右折して鎌倉街道に入ります。

 

 街道は、すぐの東八道路で遮られて先へ進めなくなるので、左折して信号のある武蔵台小学校南交差点で横断します。

 

 東八道路を隔てた先の場所で左折して街道に戻ります。

 

 住宅街をクランク状に右折してすぐを左折してしばらく歩くと、道は二又に分かれます。鎌倉街道は左の道に入りますが、右折して武蔵国分寺跡へ寄り道します。分岐の間の広場は国分尼寺跡です。ここは後ほど立ち寄ります。

 

 すぐに、武蔵野線の高架の下をくぐります。

 

 府中街道を横断して、その先の道に入ります。

 

 さらに、その先の二又は左へ入ります。分岐の右手には国分寺市文化財資料展示室があります。国分寺第4中学校の施設の中にあり、中学校の敷地で発掘された土器や瓦を展示しています。

 

 すぐのところで辺りは開け、武蔵国分寺跡に出ます。

 

 国分寺は教科書でもお馴染みの、聖武天皇が741年(天平13年)に全国に建立させた寺院です。僧寺と尼寺からなり、正式名は、僧寺は「光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」と言います。全国に建立された国分寺の中で、ここ武蔵国分寺は結構規模の大きな寺だったようです。ちょうど1週間前に、東海道歩きで遠江国分寺跡を訪れたばかりでした。

 金堂跡の前に史跡の標柱が立っています。普通に車が通れる道路が遺跡の中を走っています。

 

 南側にある参道口近くから僧寺伽藍へ向けて歩いてみます。

 

 車道の数m左側に参道が続いていたようですが、今は芝生の原っぱになっています。

 

 伽藍に入る中門の跡です。

 

 白く色を変えて礎石のあった場所を示しています。

 

 敷地の脇には建物を支えた礎石が置いてあります。律令国家の衰退とともに国分寺の伽藍は失われ、畑に変わっていきました。その場に残っている石もありましたが、その多くは他所へ持ち去られてしまいました。

 

 中門の先にあるのが金堂です。金堂跡を北側から望みます。金堂には本尊が安置されていました。

 かつての金堂の基檀には、古代のレンガが敷かれていて、今は色合いを似せたブロックが敷かれています。また、往時のままの19個の礎石が残っていますが、残りは円形の模擬礎石が当てがわれています。

 

 金堂の北にあるのは講堂跡です。経典の講義を行う教室でした。基檀側面には瓦が積まれています。

 

 伽藍の東側には鐘楼がありました。また、伽藍の中心線から西側の対称位置には経典を納める経蔵が建っていました。

 

 北の端で伽藍中枢地域から出て、さらに北へ向かいます。

 中枢地域の配置図で今一度確認すると、伽藍にはこの他に東西の端に僧の生活の場である僧坊がありました。また、七重塔は少し外れた南東側にありました。

 

 現国分寺へ向かいます。

 

 正面には立派な楼門が立っています。この門は米津出羽守田盛家の菩提寺であった米津寺(東久留米市)から明治28年に移築されたものです。

 

 楼門の先は今に残る国分寺です。武蔵国分寺は、元弘3年(1333年)に新田義貞分倍河原の戦いから退却する際に、義貞が火を放ち全て焼失してしまいました。その2年後の建武2年(1335年)に新田義貞はそのお詫びに、金堂跡に薬師堂を建立しました。その後、宝暦年間(1753から1761年)に今の場所に再建されました。薬師堂は後ほど訪れます。

 一方、現国分寺の本堂は享保3年(1718年)に再建されました。全国の国分寺の中で今に残るのは珍しいそうです。本堂も後ほど訪れます。

 

 国分寺から右へ入ります。めちゃくちゃ雰囲気のある小径です。

 

 この道筋はお鷹の道と呼ばれ、江戸時代、このあたりは尾張徳川家の鷹狩場に指定されていました。その後、湧水を集めて流れるせせらぎ脇の小径を「お鷹の道」と呼ぶようになりました。

 

 

鎌倉街道上道(6)北府中から西国分寺 その2へ続きます。