今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(18)浜松~舞坂宿~新居町 その2

 

2023年5月20日

 

坪井

 

 国道257号から別れ、旧舞阪町の篠原地区を通り、さらに坪井地区に入ります。右手の神社は愛宕神社です。文禄元年(1592年)に京都愛宕神社から御分霊を奉斎したのが始まりです。慶長6年(1601年)に徳川家康が鷹狩の際に祈願したという謂れが残っています。街道脇には秋葉燈籠が立っています。

 

 県道65号との交差点、坪井北交差点の脇には明治天皇御東幸野立所跡の説明板があります。明治天皇はここで短い休憩をしてから、先ほど通過した篠原村の立場本陣で小休止しました。

 

 またまた、秋葉燈籠が立っています。隣の槇の生け垣がきれいに刈られていますね。

 

 秋葉燈籠の隣は稲荷神社です。永享12年(1440年)に伏見稲荷から勧請したと言われています。

 

 右手の秋葉燈籠の前には坪井村の高札場跡の説明板が立っています。

 

 馬郡(まごおり)東バス停を通過すると、

 

 その脇には、少しスマートな秋葉燈籠が立っています。

 

 東本徳寺があります。見事な槇の木の生け垣が両脇に続く先に、山門と本堂があります。 参道入口には「南無妙法蓮華経」題目と「清正公三百年祭記念碑」が立っています。日蓮宗のお寺です。

 

 その先は、西本徳寺です。「南無妙法蓮華経」題目と「海中出現 釈迦牟尼佛安置碑」が立っています。

 

 馬郡跨線橋南交差点の角にあるセブンで水分補給をした後、交差点の反対にある春日神社へ寄ります。緑が豊かです。

 

 応永2年(1395年)に春日大社から勧請しました。両脇には雄雌の狛鹿が立っています。鹿とは春日大社らしいです。

 

 手水所には蛙が。

 

 舞阪駅南入口交差点を通過します。右へ入ると東海道本線舞阪駅に出ます。

 正面には松並木が見えてきました。

 

 松並木が始まります。松の木の下には、点々と東海道五十三次の浮世絵を記した小さなブロックが並んでいます。日本橋から始まります。

 

 正徳2年(1712年)に街道の両脇に1,420本の松が植えられました。現在は700mにわたって370本が続いています。

 

 比較的若そうな松ですが、往時の街道の雰囲気を残しています。

 

 各宿場を描いた碑は30番目の舞坂宿だけ、ひときわ大きなものになっています。

 

 道の反対側にも舞坂宿の碑が立っています。

 

 松並木を横切る川に舞坂橋が架かっていたようです。

 

 いい雰囲気ですね。

 

 五十三次ブロックも京師三条大橋までやってきました。そろそろ松並木も終わりです。

 

 松並木が終わると、国道301号と合流します。合流手前の角には、休憩場所やトイレが用意され、その一角には浪小僧の像があります。

 昔々、地引網に真っ黒な小僧がかかりました。漁師たちは気味悪がって、小僧を殺そうとしましたが、その小僧は命乞いをして、海が荒れたら海の底から太鼓をたたいて知らせると言いました。漁師たちは浪小僧を海に戻してあげましたが、それからは、海の天候が変わる時には波の音が聞こえるようになったという話があります。

 

 東海道は国道を斜めに横断して左の道に入ります。

 

 

舞坂宿

 

 交差点から200mほど歩くと、センターラインのある道から急に道幅が狭くなります。ここにはかつて舞坂宿の江戸側の見附がありました。両脇には石垣のオブジェがあります。

 

 舞坂宿に入ります。

 

 すぐの左手には、文化12年(1815年)建立の新町の常夜燈が立っています。文化6年(1809年)に舞坂宿では大半を焼く大火がありました。これを機に火伏の神である秋葉様を祀るようになりました。舞坂宿にはここを含めて3基の常夜燈があります。

 また、常夜燈の奥には一里塚碑が立っています。舞坂の一里塚で、日本橋から数えて68里目の一里塚です。

 

 道の反対側北側にも一里塚碑があり、小公園として整備されています。

 

 建物は古くはないのですが、雰囲気の良い町並みになってきます。「しらす、のり」の看板が目立つようになってきました。

 

 宝珠院の門前には仲町の常夜燈が立っています。こちらは文化10年(1813年)に建立されたものです。

 また、宝珠院では明治6年1873年)に舞坂宿ではじめて小学校が開かれました。

 

 さらに雰囲気が良くなっていきますね。

 

 右手には本陣跡の碑が立っていますが、遺構は残っていません。

 

 

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